魔法使いに向いてる

「終わらない日常」 を超える処方箋

笹井宏之『八月のフルート奏者』を読む(2)

 

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前回に引き続き、歌集を読んでいきましょう。

2006年

レトリックに少し、自覚的になっていく様子がうかがえるのがこの年だ。

 

冬の夜の終わり 人工衛星が季節切りつつ落ちてゆく

 

声に羽根生えてしまうを切り落としくちびるへと伝えゆかん

 

大楠をつらぬく白羽 揺れやまぬ影にふたりという孤独あり

 

日本語が熟れてゆきます うすあかりする古書店の春の詩集に

 

なんといふしづかな呼吸なのだらう蛍の群れにおほはれる川

 

どうしてもかなしくなつてしまひます あなたをつつむあめのかをりに

 

八月のフルート奏者きらきらと一人真昼の野を歩みをり

 

みづうみに沈んでゐたる秋空を十の指もて壊してしまふ

 

われが我としてあるためにみづいろの鳥を胸より放つ十五夜

 

 

私が気になったのは「日本語が熟れてゆきます」「どうしてもかなしくなってしまいます」のように歌の中に「ます」が出てきたこと。

この「ます」というのは日本語の丁寧表現だ。

 

日本語の普通体と丁寧体のちがいは、例えば以下のように述語の位置に現れる。*1

天気が回復した(普通体)

天気が回復しました(丁寧体)

でも、一体「日本語が熟れてゆきます」「どうしてもかなしくなってしまいます」の敬意の対象って何なんだろう?

敬語のレッスン

少し日本語文法の話をさせて欲しい。

敬語表現には、表現の相手に対する敬意を表す「対者敬語」と

表現される事態の中に登場する人物に対する敬意を表す「素材敬語」がある。

【対者敬語】

(1)こちらが入口です。

(2)来週、九州に出張いたします。

 

【素材敬語】

(3)鈴木先生は、いつもお忙しい。(主体「鈴木先生」に対する敬意)

(4)高津さんは鈴木先生をお宅までお送りした(受け手「鈴木先生」に対する敬意)

 この短歌が贈答歌のように特定の誰かに贈られた歌なのであれば「対者敬語」なのだけど、歌集からはそのような対象は識別できなかった。

 

だからおそらく

日本語が熟れてゆきます うすあかりする古書店の春の詩集に

 どうしてもかなしくなつてしまひます あなたをつつむあめのかをりに

 の二首で使われている「ます」は、ここに詠まれている事象そのものに対する敬意なのかもしれない、と思った。

 なかなか面白いレトリックだ。

 

2007年

少し軽快な感じの歌が増える。

手袋の中が悲しき思い出に満たされてゐて装着できぬ

 

月光に水晶体を砕かれてしまひさうなるきさらぎの宵

 

あすひらく花の名前を簡潔に未来とよべばふくらむ蕾

 

どのやうな鳥かはわからない しかし確かに初夏の声で鳴くのだ

 

泣いてゐるものは青かり この星もきつとおほきな涙であらう

 

パチスロの明かりが夜の水田を覆ふ 綺麗と思つてしまふ

 

人生はソフトテニスの壁打ちさ さうつぶやいて風にでもならう

 

この国に夢はあるかといふ問ひに大樹ははつか枝を揺らせり

 

ゆふばえに染まりつつある自転車の夢見るやうな傾き具合

 

 

なぜか2007年の歌の中で、パチスロの歌は特にハッキリと情景を結んだ。

二物衝突――パチスロの明かりと夜の水田

パチスロの明かりが夜の水田を覆ふ 綺麗と思つてしまふ

パチスロと水田の取り合わせって、そもそもシュールな光景だ。「意外な取り合わせ」とでも言おうか。

この「意外な取り合わせ」も手法として一応は確立している。

所謂「二物衝突」と呼ばれる手法で、関連のないように見える二つの事柄をぶつけ合うのが効果を生むとされる。

二物衝突の例として、以下のような俳句が挙げられる。

葬人歯あらわに泣くや曼珠沙華 飯田蛇笏師

この句は歯にフォーカスしたあと、そのバックの曼珠沙華にぱっと視点が広がる。その意外性というか、映画のカメラのような視点の切り替えが、この手法の見せどころだ。

パチスロの明かりが夜の水田を覆ふ 綺麗と思つてしまふ

二物衝突というのは、読者の「この語のあとにはこの語が来るだろう」って期待を良い意味で裏切る手法なのだろう。

この歌であれば、カメラワークとしては「パチスロの明かり」が「夜の水田」に映っている様子が描かれている。これだけでもなかなかシュールなはずなのだけど、その視点を持っている作中人物がふと「綺麗」と言うことで光景として実感が沸く。

巧いと思う。

2008年

だんだんと力の抜けた線画のような歌が増えていく。イメージとしては『クレーの天使』だ。

珈琲の湯気に眼鏡はくもりゆき、そののちみえてくる銀世界

 

太陽の死をおもふときわが死は微かな風を繕ふカーテン

 

夜深くことばの舌を絡めあふやうにしたためる一行詩

 

ゆつくりと傘をたたみぬ にんげんは雨を忘れてしまふ生き物

 

凍らねばならぬ運命(さだめ)を分ちあふ如月 われとわれのみづうみ

 

溢れては止み溢れては止みやがて寂しき井戸として星を見る

 

左手でルームミラーをあはせつつ背後の世界ばかり増えをり

 

たましひが器をえらぶつかの間を胡蝶ひとひら風に吹かるる

 

ほんのりと煤けてゐたが五年ぶりのあいつの羽根はまだ白かつた

 

顔をあらふときに気づきぬ吾のなかに無数の銀河散らばることを

 

葉桜を愛でゆく母がほんのりと少女を生きるひとときがある

 

咲きそろふマーガレットの微細なる揺れに銀河のしらべを聞きぬ

 

蜜柑の香かをらせながら君の手が吾のくびすぢへ夏を添へたり

 

名を知らぬ鳥と鳥とが鳴き交はし夏の衣はそらをおほひぬ

 

笑ひとは論ではないといふことの鳥居みゆきが振るへるバット

 

哀しみが痛みへ変はる瞬間の途切れさうなる我が蝉の声

 

透けてゆくやうに丸まりたる猫を朝陽の中にそつと掴みぬ

 

 2009年

初春のよろこびなしと言ふひとへ迎へらるるがよろこびと説く

 

波打つ音がフェードアウトしていくように、歌は消えていった。

 

 

八月のフルート奏者 (新鋭短歌シリーズ4)

八月のフルート奏者 (新鋭短歌シリーズ4)

 

 

 

笹井宏之『八月のフルート奏者』を読む(1)

やるべきことをリストアップして、それに突き進んでいる。

これはすごく単純なことで、私はこうした淡々とした日々を端的に愛している。

だけど何かの機会があって誰かと自分を比べてしまうと、どうしても自分の中の「しみ」のようなものが、じんわり広がっていくような気がする。

 

ネガティブ回路にはできるだけ嵌りたくない。

少しでも自分の気持ちの落ち込みを感じたら、好きな歌集を読むようにしている。

 

短歌のリズムで自分の気の迷いというか、心の小さな揺れのようなものが調律されて、心地いいんだ。

 

そしてブログを書いて気づいたのだけど、好きな言葉は書くと、もっと好きになれることがわかった。指先から自分の内面に入っていくような感じがするのだ。

 

これは一つの発見だった。

 

 

まぁとにかく、私が好きな歌をたくさん紹介したいと思う。

 

今日は笹井宏之『八月のフルート奏者』から歌をご紹介。

 

 

八月のフルート奏者 (新鋭短歌シリーズ4)

八月のフルート奏者 (新鋭短歌シリーズ4)

 

東直子さんの選歌5首

なお、監修者である東直子さんの選歌は以下のものだった。

 

葉桜を愛でゆく母がほんのりと少女を生きるひとときがある

八月のフルート奏者きらきらと独り真昼の野を歩みをり

雨といふごくやはらかき弾丸がわが心象を貫きにけり

ひろゆき、と平仮名めきて呼ぶときの祖母の瞳のいつくしき黒

木の間より漏れくる光 祖父はさう、このやうに笑ふひとであつた

 

水彩画のように淡い歌、そして自分と家族の距離感をやさしくなぞるような歌が選ばれている。

それでは、作成順に読んでいこう。

2004年

歌のモチーフとして「生活の中に積み重なった時間」や逆に「刹那的なもの」に対する思い入れが描かれている。

 

愛用の栞に付きし折り目より物語一行零れている

 

カレンダー捲るの忘れ長月の景色壁だけに残されている

 

君が差すオレンジ色の傘を伝うたった一粒の雨になりたし

 

君でなければならなかったのだろうか国道に横たわる子猫の骨

 

散る銀杏散らない銀杏それぞれの並木を縫いしエンジンの音

 

かららんと季節外れの風鈴にどこかに心を温められて

 

こうしてみると、一首ごとに独立しているはずなのに、それでいて全体としての統一がある。ノスタルジックな感じはどこから来るのか、特徴を見ていく。

 

この時代には「オレンジ」だとか「エンジン」といった現代的な日本語を使っているものの、第一歌の「栞につきし」の「し」のであったり、「君が差す~」の歌の「が」格の使い方や「なりたし」のような用法を混ぜて使われている。

現代日本語の語彙と、古語としての助動詞を組み合わせることでノスタルジックな感じが出てくるのだろう。

過去の助動詞について

愛用の栞に付きし折り目より物語一行零れている

 

この歌の「付きし」の「し」は過去を表す助動詞「き」の連体形だ。

現代では「た」で表す。現代の「た」だと連体形も終止形も同じ形をしているので、現代短歌で「た」を見ると句がそこで切れてしまったのではないか、と逡巡してしまってリズムが少し悪くなる気がする。

一方で「し」は連体形と終止形が「し」と「き」で異なっているから、読者にとってここちよいリズムになるんじゃないだろうか。

 

2005年

他愛ない質問「好きな色は何?」答える「今日は水色でした」

 

パソコンの起動時間に手を取りし詩集を最後まで読み通す

 

落花生食む度に落つる甘皮に人の残せるは何ぞと問う

 

床にあれど母は母なりせき込みつつ子の幸せを語りて眠る

 

百万年経って発見されるのは手を繋ぎあう二人の化石

 

密やかな夢は終わりを告げて今感じていたり唇の熱

 

永劫の暗夜に浮かぶ星青く我は風無き月の住人

 

春立ちて凍てたる疾風過ぎ去れり何処に還らん薄氷の月

 

日常を愛でる歌から始まって、「化石」あたりから幻想の世界に跳躍する。

 「同じ筆者が詠んだ歌」としてこの年の歌をまとめて読むと、

落花生食む度に落つる甘皮に人の残せるは何ぞと問う

 という歌が根底にあるような気がする。この歌だけどこか、心の深い所から出ている感じがするのだけど、どうしてだろう。

 

理由はよくわからないけれど「人の残せるは何ぞと問う」た結果として、以下の耽美的な二首がある。

永劫の暗夜に浮かぶ星青く我は風無き月の住人

春立ちて凍てたる疾風過ぎ去れり何処に還らん薄氷の月

彷徨っていた「我」の描写がここまで美しくなる、というのは良い意味で想定外だった。

以後、どことなくやさしい歌が増える。

立つことを目的として立つことを叶えた後に歩みゆきたい

 

桃色の花弁一枚拾い来て母の少女はふふと笑えり

 

一枚であること一人であることの水泡 此岸桜は流れ

 

想うとは夏の動詞か汗と汗の間にいよよ強くなりたる

 

呼び合える名があることの嬉しさにコーラの缶の露光る夏

 

霧のごとき何時を掻き抱くためわれの胸に八月のすべてがある

 

秋桜の千本あれば千本の影あり 園に夕暮れは来て

 

花束をかかえるように猫を抱くいくさではないものの喩えに

 

チェリストの弓は虚空を描きたり 最終音符を炎打して

 

「我」と名前を呼び合える関係。

現代短歌で他者を描写する時、割と指や背中といった身体の部位を描写する傾向にあると思う。

だけど笹井宏之さんは他者の描写として、あまり身体を詠み込まない。

他者を他者として描くのではなくて、あくまで「自分との関係」を描いている。これがうまく機能すると、幻想的な感じを産むのだろう。

笹井宏之さんが詠む風景や人物というのは「言葉と言葉が指し示す対象/モノ」という主従の関係ではなくて、言葉が言葉を生んでいるような、そんな感じがする。

 

長くなったので、次回に続きます。

若林正恭『表参道のセレブ犬とカバーニャ要塞の野良犬』のタイトルが長すぎてちょっと恨む

お笑い芸人、オードリー若林の「世間との距離感を掴めずにもがいている様子」がすごく好きだ。

もちろんオードリーの漫才も大好きなのだけど、若林の簡潔で熱があって、面白い文章もめちゃくちゃ良い。

 

前作のエッセイ集完全版 社会人大学人見知り学部 卒業見込 (角川文庫)は売れない日々と多忙な日々、両方のエピソードが描かれている。

風呂無しアパートで、精神をひん曲げながらも笑いを求めて生き抜いてきた姿に強く心打たれた。泣けて笑える、サイコーの作品。

 

最新作の『表参道のセレブ犬とカバーニャ要塞の野良犬』は一言でいえば若林のキューバ旅行記なのだけど、勿論それに尽きない魅力が詰まっている。

一体若林は5日間のバカンスで何を見てきたのだろう?

 (以下ネタバレあります)

若林はなんでキューバへ行ったの?

タイトルにある「カバーニャ要塞」というのはキューバの中心都市、ハバマにある要塞の名前だ。

 『表参道のセレブ犬とカバーニャ要塞の野良犬』の冒頭に、旅行のきっかけになったいくつかのエピソードが提示してある。

そのうち、コアになる部分を紹介しよう。

東大院生の家庭教師と新自由主義システム

 若林の疑問は次のような、ごく素朴な疑問をぶつける。

格差社会と言われ始めたのはいつ頃でなぜか?」

「なぜブラック企業が増えたのか?」

「なぜ交際相手にスペックという言葉が使われるようになったのか?」

若林は東大院生を家庭教師として雇って、ニュースに関する疑問について解説してもらっているそうだ。…これらの疑問に対し、東大院生の家庭教師は「新自由主義」という切り口を提示する。

 

競争相手としての他者

ここでの「新自由主義」というのはあらゆる他者を競争相手として機能させるシステムこと。

 

言ってみれば、友人も同期も「競争相手」とするシステムだ。

「やりがいのある仕事をして沢山稼ごう!」というメッセージを含んだ広告塔。若林は売れない時代、部屋にエアコンがなくて圧倒的な敗北感を覚えている。

売れるようになってからも、学校の同窓会で「稼いでるんでしょ?」と振られた時にあたふたと変な空気を作ってしまっている様子。読んでいて背中がじっとりした。

 

 自分よりも稼いでいるヤツ、自分より容姿のいいヤツ…敵を数え上げればキリがない。そうした実感をメタ的にぶった切る視点を得て、若林はものすごいツッコミを入れる。

「ちょっと待って、新自由主義に向いてる奴って、競争に勝ちまくって金を稼ぎまくりたい奴だけだよね?」

表参道のセレブ犬とカバーニャ要塞の野良犬 pp32

 すごい切れ味、すごいメタ・ツッコミだ。

…若林は「新自由主義ではないシステム」を求めて、社会主義の残り香のあるキューバに旅立った。

 

同じ視点に立てるキューバの旅

若林のキューバへの旅は、5日間の長く短いバカンスだ。

現地のガイドとキューバの要所をめぐる。照りつける鋭い日差し、葉巻とモヒート、それからチェゲバラ邸宅…ひとつひとつ、若林は丹念に味わって、最終日には一人でカリブ海に向かうのだ。

馴れない海外の路線バスに悪戦苦闘しながらも、バスから降りた時の光景が、本当に笑っちゃうくらい綺麗なカリビアン・ブルーだった。

写真は若林が撮影しているらしくて、若林と近い目線で景色が見れるのが、ファンとしてとても嬉しかった。

ぼくは思わず「ははははは!」と声を出して笑ってしまった。

なんでだろう、めちゃくちゃ綺麗な海に辿り着けたことがおかしくて仕方なかった。

表参道のセレブ犬とカバーニャ要塞の野良犬pp158

笑ってしまうくらいに美しい海、というのは神経の拘束バンドを外してしまうのだろう。若林の興奮が素直に伝わってくる。

短い遊泳を終えると、海から帰ってぶらぶらと街を出歩く。

…するとふと、一人でいるはずなのに、どこからか「他者の声」が浮かんでくる。

カストロゲバラが革命をしていなかったら、この道も日本人一人で歩けなかったかな?」

「……そうかもな」

至る所からキューバの陽気な音楽が聞こえてくる。バーから漏れ出した音に乗って手首にビニール袋をぶら下げた80歳くらいの老婆が警戒にステップを踏んでいる。

 

表参道のセレブ犬とカバーニャ要塞の野良犬 pp178

 

鍵括弧は独り言の描写なのかな?と思って読み進めると、

次の箇所に突き当たる。 

 

本心は液晶パネルの中の言葉や文字には表れない。

アメフトの話や、声や顔に宿る。

だから、人は会って話した方が絶対にいいんだ。

親父に会いたいな。

 

あー、そっか。

家族か。

家族。競争の原理の中で、絶対的な味方。

表参道のセレブ犬とカバーニャ要塞の野良犬 pp193

 

ふと、キューバは、亡くなった親父さんが行きたがっていた国だったと明かされる。

絶対的な味方であった父親が、行きたがっていた国。

 

そうしたエピソードが喪失感や悲しい物語としてではなく、温かい存在を近くに感じられる言葉で描かれる。

 

キューバの街を歩いて浮かび上がってくる言葉は、若林が欲していた言葉なのだろう。

とても温かくて、心地よい色合いだ。

 

 

競争相手ではない人間同士が話している時の表情だったのかもしれない。

 ぼくが求めていたものは、血の通った関係だった

 

表参道のセレブ犬とカバーニャ要塞の野良犬pp203)

 

競争相手ではない人間同士が話している時の表情、というのはなかなか見られない。

私自身、気づいたらどこか気を張って対抗意識を燃やしてしまう。

それにそうした、他愛のない表情はきっとすぐに忘れてしまう。

若林はもうそれに気付いていて、だからこそ、そうした素朴な光景を網膜まで焼き付けようと、あたたかい表情をたくさん見てきたようだった。

 

 感想

アドルノを引くまでもなく「アウシュビッツ以後、詩を書くことは野蛮である」。

エッセイだってそうだ。言葉と世界を天秤にかけて、ゆらゆらさせられるような世界ではない。

 『表参道のセレブ犬とカバーニャ要塞の野良犬』は物語としてちょっと綺麗に整い過ぎている気もする。

だけど陰鬱さを言語化して、笑ってもらおうとファイティングポーズをとり続ける若林が大好きだし、疲れ果てて不貞腐れている若林もとても愛おしく思う(たぶん本人は嫌だろうけど)。

そしてなによりも私は、鬱屈した気分の時に若林に笑わせてもらっている。つらい時に笑えると、マジで「希望かよ」って思う。

 

とにかく私は若林の、「選ばれないこと/持たざること」を気にするのなら、「持っているヤツ」に笑ってもらった方がいい、と言い切るスタンスがとても心地良くて、大好きなんだ。

 この目で見たかったのは競争相手ではない人間同士が話している時の表情だったのかもしれない。

 ぼくが求めていたものは、血の通った関係だった。 

 

表参道のセレブ犬とカバーニャ要塞の野良犬 pp203

 

 好きな言葉だ。

 

 

 

表参道のセレブ犬とカバーニャ要塞の野良犬
 

 

なぜ文学は「死んだ作家の文章」研究対象にするのか

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誰かに言う機会もないのでここに書き溜めておく。

一年くらい前、ゼミで「どうして文学研究って死んだ作家の文章しか研究対象にしないんだろうね」って話が出て、その時私はすっと答えが出なかった。

だからといって文学研究科の教員に聞きに行くこともなく、この論題については頭の片隅でずっともやもやしていた。

 

だけど、ちょっと仮説めいたものは立てられた気がする。

「文学研究者が、生きている作家の文章はあまり研究対象にしたがらない」理由は、結論から言えば「生きている者はテクストだけで評価できない」からだ、と思う。

 

文学研究の流れ

文学研究は大きく分けて「書かれた作品」をみるテクスト論と「書いた人」の手記だったり人間関係だったりといった社会的背景をみる作者論がある。

あとは1970年代後半に物語の体系(≒記号的構成)を記述するような流れもあるけど、たぶんそれは文化記号学に入る。

 

ここでは詳しくは触れないので、文化記号論について気になる人は以下の本を読んでください。

文化とコミュニケーション―構造人類学入門 (文化人類学叢書)

文化とコミュニケーション―構造人類学入門 (文化人類学叢書)

 

 

 

本筋に戻ろう。

文学研究が「生きている人間を研究対象にできない」理由は「作家が死なないと、作家論ができないから」なんじゃないだろうか。

文学では死んだ作者の作品しか研究対象にならないのか?

人間は、人間を文章だけでは評価できなくて、どうしてもテクスト(=書かれたもの)の背後にある作者や作者の属性のことを考えてしまう。

 

仮に作者が「この文章はこういう意図で書いたんです」って「あとがき」とかで言ったとして、それは「本人がそう言っている」というメタ的なことしか言えない。


だけど読者は「こんなにも素晴らしい文章を書くのなら、きっと素晴らしい経歴の持ち主なのだろう」といった風に想像を繰り広げていってしまう。

 

…だけどテクストの向こうに作者の存在、経歴、思考を仮定し続ける限り、はじめに感じた「どうしてこんな文章を書いたのだろう」といった疑問は解消されない。

だってそのような「作者」は検証できない仮定でだから……

 

それで文学研究では、テクストの読解が行き詰まってしまうと作者論であったり、同時代のバックグラウンドの調査に向かってしまう。


そうすると日記や手紙といったプライベートのことも考察対象にしないといけなくなって「生きている作家」はどうしてもプライバシーの関係で研究しにくくなる。


村上春樹が高校時代の本の貸し出し手続きの記録が本人の無許可で公開されて問題になったりもした。

www.sankei.com

体験を切り取り、共有可能にする「物語」

自分の思考とぴったりと一致した言葉なんてものは、そもそも存在しない。


頭の中にある、もやっとした概念を既成の言葉の枠組みで切り取っているだけ。


例えば「林檎」って言葉にこれまで遭遇したすべての「林檎」を思い出して居たら、とてもじゃないけど生活できない。

 

私の考える「林檎」とあなたの考える「林檎」は違う。

もちろん「林檎」から「赤い」とか「デリシャス」といった連想語を抽出して頻度の高いものを定義とすることはできるのだけど、単語だけでは体験や思考を共有できない。

だけど/だからこそ、物語は作者が自身の体験を切り取り、文章として魅力的な構成にするのだろう。

 

だから物語は文章の集合じゃないし、文章は言葉の集合ではない。

もちろん包含関係ではあるけれど、そもそも自然言語を完全な集合で表すことはできない。

文章は、語の集合以上の力学的関係があるように思う。それが構文なのか文法なのかはよくわからないけれど。

 

少なくとも出来る限り腰を据えて「どうしてこんな文章を書いたのだろう」と考え続けることで、既存の手段とはまた違った物語の研究ができると信じている。

 

 

 

研究の壁

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端的に現状を書くことにする。
卒業論文が全然書けなくて、気持ちが塞いでしまっている。

所属している学部では、「卒業論文は2万字以上」って規定がある。

去年の後期はレポートで1万字書いたけど、なかなかしんどかったのを覚えている。それの2倍だ。

2万字ちゃんと、学術的に意義のあること書けるかどうか、かなり不安に思う。

…それでも頑張っている自分は認めたい。
具体的には

・積極的に外に出たり勉強会を開いたりして、アウトプットはしている。

・文献のリストアップもだいたいできて、論文の構成自体は半分程度固まっている。

という点は割といいことだと思う。
ただ、テーマや方向性はだいたい掴めているのだけど、分析手法が確立できていないのが問題。

特に「なぜこの手法を使うのか」が説明できない。

私が興味あるのは文体分析といって
書き物の構文や語彙の特徴を分析する、というもの。

書き手や年代で優位に差が出るようなモデリングをして、離散的に構文の特徴を出したい。

だけど特徴を決めるための変項の設定ができない。

たぶんこれは今読んでる本を読了して、先行研究を精査すればなんとかなる…だけどやっぱり、手法についてちゃんと書けるかどうか怪しい。
しかも手法が理工系寄りになってしまっていて、言語学の担当教員にやってることをちゃんと伝えられるか…。

検定って概念を今日はじめて知ったのも焦る。
いや、前から知ってはいたけど機械学習の領域でそこまで必要だって知らなかった。これは相当やばいことだ。

知らない事に出会うとネガティブモンスターが背中から「そんなことも知らなかったのか?」と言ってくる。

これは間違いなく自分の声なのだけど、とにかく進捗のやばさが自分との問答で具現化してしまう。

いや、あの論文を読めばなんとかなる、って希望はまだあるし、その著者にアドバイスを貰えばいいと思う。とは言える。

知らないことを知るのは面白い。
だけど論文の形に落とし込むまで「わかった」と言えない。

わからないことが増えていくのは面白い。

わからない事が多いのは不安で、こういうのを「沼」って呼ぶんだろう。

卒業まであと半年。
自分で納得できる質を追求しようとすると、なかなか厳しいものがある。

清潔で明るい場所、ありますか

 

…難しくて暗い考えはやめよう。

 

ネガティブな語彙を増やしても人生は豊かにならないし、腹が立つなら腹が立つって言えばいい。そして対象から距離を取るんだ。

最近、何か悪いことがあった訳ではないのだけど、

腐葉土をひっくり返したみたいな気分になる。

 

ただ人生が悪い方向に向かっているかというと、全然そんなことはない。

感謝してもしきれない程、私は恵まれていると思う。

 

無を知りすぎているのだ。すべては無で人間もまた無だった。

ただそれだけの話だし、それに照明がとても必要なのだ。

それから清潔さと秩序が。ある者はそのなかで生きられる。けど気づくことはない。しかしおれは知っている。

ヘミングウェイ短篇集 (ちくま文庫)

 

 

ベッドの下には何もないし、本棚の裏なんてもってのほかだ。

照明の当たらない場所をじっと見つめるのを今すぐやめろ。

 

何が美しいのか、最近さっぱりよくわからない。

 

だけどたぶん、具体的な物事に対する、ちょっとした驚きの積み重ねであったり

相手の美意識を素直に誉めることが何よりも必要な気がする。

 

…ひょっとすると私のやっていることは、泥の上の蓮を獲ろうとするような真似なのかもしれない。

泥を掴んでまた泥を掴んでいる。

 

それでも自分から掴んだ泥だ。

それに「これは違う」と思ったら、汚れた手を洗えばいいやと思う。

少なくともそう言い切ってしまえば、記憶の中の泥のようなものは、砂になって消えていく。そう信じるんだ。

 

少なくとも、信じる者は報われると私は信じています。

 

 

 

 

 

 

大阪西九条をぶらぶらしてきた

ちょっと用事があって、大阪環状線の西九条駅をぶらぶらしてきた。

中津の高架下をぶらぶらした記事が個人的に気に入ったので、似た感じでまとめておく。

 

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