魔法使いに向いてる

「終わらない日常」 を超える処方箋

放出

心象のいろははいいろ
あけびのつるはからまって
紅いざくろは雨に朽ち

空の基層はひくく鳴り
いかりはにがく歯を立てる

商用などや先祖など
忘れていたと言えないが

ほどけた雲におおわれて
まことのことばはうしなはれ
はぎしり燃えて溶けていく

透明な意志

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『ロリータ』で知られているロシアの作家・ナブコフの『透明な対象』を繰っていたら、こんな節に出会った。

ちょっと出来の良い(が故にこんがらがってしまう面倒な)人間をメタ的に描くのが上手い作家だと思う。

 

あれこれと退屈な方法で生活費を稼いだが、それは、特別な才能とか野心がなく、頭脳のほんの一部だけを単調な仕事かうさんくさい仕事に使うことに慣れてしまっや頭のいい若者が陥りがちな道だった。

他のもっと大きな部分はどう使うのか、本当の夢想や感情はどういう形でどのあたりに宿っているのかは、まったくの謎といわけでもない

――今ではなんの謎もない――ただそれを解明し暴露しようとすると、とても直視できないほど悲しくて、恐ろしいのである。

 

ナブコフ『透明な対象』

 

ここで描かれている「謎」、というのは言葉の沼地のようなものだ。

冷たく鈍く淀んでいて、一度踏み入れてしまうと身動きがとれなくなってしまう。

「不安感」と言い換えてもいいかもしれない。

不安/明晰さとは何なのか

不安、というのは未来に対して何らかの不足感のある状態のことだと思っている。

時間が過去・現在・未来と流れるものだとして、現在以外のものに意識が向けられている時、人はメランコリーや漠然とした不安に陥る。

ナブコフは『透明な対象』の冒頭で未来というものを言葉の彩、思考の亡霊でしかない

と言ってのけている。

もし未来が、優れた頭脳なら認識できるものとして、具体的かつ個々に存在するなら、過去はさほど魅力的ではなくなるだろう。

…未来というのはそうした(思い描かれる過去と認識される現在が持つような)現実性を持たない。

未来とは言葉の彩、思考の亡霊でしかない。

未来は本来、現実性を持たない。

例えば「将来は仕事でこんなことしたい」という未来像があったとする。

だけど、この未来像は「他人にこう見られたい」って願望を反映してるだけなのかもしれない。

自分の未来像が明晰であればあるほど、その源泉はどこかのコマーシャルを引っ付けたものだったり、上司の期待を反映させただけの代物のような気がしてくる。

 

目標設定をするときは「より具体的で定量化しやすいこと」が求められるけど、「明晰であること」はひとつの妄信でもある。

自分の知っている目標や手段に従って生きることは、自分が想定できない説明体系を棄却することになるからだ。

 

意志は自分に裂け目を作る

ナブコフの『透明な対象』では、人間の生と死についての基本的なイメージを下敷きにしているようだ。

  • われわれの個人的な〈生〉とは、われわれの実質が凝縮して固体化した一つの形態
  • われわれは実質としては永遠であり、形態としては有限な存在
  • したがって個人的な〈死〉とは、実質が形態をこえて拡散してゆくこと
  • ふつうの人間の日常生活においては、生はみずからの形態の中に内没し、凝固している(ふつうの人間は、人為的なさまざまな価値を重大なものと信じ込んで執着することによって、生命の集中力を保っている)

気流の鳴る音―交響するコミューン (ちくま学芸文庫)より一部改変)

 

物語には、一人の人間がひとつの形態から解放され、別の存在に移っていく過程が描かれている。主人公は頭が良いが、空想家でフェティッシュだ。

占星術師のように断言することもなければ、戦士のように強い意志を持つ訳ではない。

個体性の彼方にある存在を手に入れようとするとき、それには自分を超える何かを獲得しようとするのには、意志をきたえなきゃいけない。

 

先に引いた真木悠介の『気流の鳴る音』では、この状態を〈コントロールされた愚かさ〉として描いている。

「彼は自分のやることには意味があると言わせるし、じっさいそうであるかのように行動させる」

「〈意志を意志する〉ということであり、目的自体の自己決定性、自己の欲求の主体であることにほかならない」

 自分の「こうしたい」という欲求ではなくて、宇宙の摂理がそうさせた、というような意志。確かにここまでスッパリ言ってのけることができれば、誰もがその行動に納得するだろう。

 

…ここまで書いて、自分は宇宙について、何も知らなさすぎると思った。

 

 

 

『クレーの絵本』の感想

「そばにあるだけで、落ち着くもの」がある。

少し手に取って眺めただけで

自分の静脈が整うように、青く澄んだ気持ちになる。

 

昔収集した鉱物、展覧会の目次録…そういった類のものだ。

だいたいこの手のものは他人にとって「取るに足らないもの」だろう。

 

だけど、そういうものに繰り返し触れることで、自分の中の「確かなもの」をなぞることができるような気がする。 

寝付けないとき、いつも同じ思考回路をめぐる。

 

自分が存在しなくても、世界はきっと回り続ける。

 

死者の吐息を吸い込んでいるとも気づかず

足元に埋まった屍に気づかないで暮らしていくように。

 

自分はいなくなったらどこに行くのだろう。

よくわからないけれど、できるだけ透明で美しい世界にいきたいと思う。

そういった美しい何か…

目の前にはないし、これからも触れられないかもしれないけれど、どこかにきっとそういうものがあると確信できる、というのはすごく私にとって大切な気がする。

ようこそ、さよなら世界『クレーの絵本』

クレーの絵本

 眠れないときに読む本を紹介しようと思う。

 

今回紹介するのは『クレーの絵本』。19世紀、スイスで誕生した画家だ。

そのクレーの絵に、谷川俊太郎の詩がついている。

『クレーの絵本』を解説するには、私自身の拙い語彙よりに谷川俊太郎の解説を引用した方がいいだろう。

クレーの絵に現れているものは、私たちがふだん目にしているものとは違う。

たしかにそこには文字や人のかたちや植物らしきものが描かれてはいるのだけど、それを言葉にしようとすると私たちはためらざるを得ない。

言葉で彼の絵をなぞることは出来ないと私たちは思う。

クレーは言葉よりもっと奥深くを見つめている。

それらは言葉になる以前のイメージ、あるいは言葉によってではなく、イメージによって秩序を与えられた世界である。そのような世界に住むことが出来るのは肉体ではない、精神でもない。魂だ。

谷川俊太郎「魂の住む絵」

『クレーの絵本』を見ていると、なにか対象そのものを描いているのではなくて、その奥に潜んでいる「性質」だとか、その対象が置かれている「文脈」だとか「構造」といったものを描いているような感じがする。

 

 

それが具体的に、絵のどういった所からそういった感じが起こるのかはわからない。

 

しいて言えば、色彩だろうか。

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普段の認識を裏切れば裏切るほど、新鮮味というのは生じる。

普段見慣れているものの、自分の知らない側面を知るという意味で

絵を見ることは一種の自己啓発だと思う。

 

絵画で新鮮味というと、ある種の突拍子の無さと結び付けられがちだけど

クレーの絵はどこか不調和の中に調和があって、その有様が対象の奥に潜む構造だとか、そういったものを喚起させているような気がする。

 

社会の狭間でうなされている時、ぜひ手に取ってほしい作品だ。

クレーの絵本

クレーの絵本

 

 

 

 

人生と植物のメタファー

少しずつ植物を育てていこうと思う。

 

下手に他人の人生に首を突っ込むよりも、

淡々と植物の世話をするのが好きだ。

 

言葉を持つ生き物は、あれこれ余計なことを考えてしまう。

 

一方、植物は根を張り茎をのばすことだけが生存戦略なので、

生きる方法がずっとずっとシンプルだ。

 

抽象的に物事を考えてうまくいかない時、

「うまい比喩」というのは役に立つ。

 

例えば人生を樹木に例えて、ニーチェは次のように言う。

 

「樹木にとって最も大切なものは何かと問うたら、

それは果実だと誰もが答えるだろう。

しかし実際には種なのだ」

 

 

自分の人生を樹木に例えるのなら、今は花を咲かせるのに必死にもがいている時期だし、きっと花を咲かせたら「花を散らすまい」って躍起になるだろう。

だけど本当に大切なのはそれを実らせ、次の世代に繋げる事。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

…というのはただの心象スケッチだ。

わざわざ文章にしなくても傷口にしみる程、本当に痛いくらいによくわかってる。

 

 

自分には思考の癖があって、物事を逆から考える。

 

ニーチェの名言だったら

「要するに種なんでしょ?次世代の育成なんでしょ?」って。

 

そんでもって「女性にとっての種とは何か」って問を立てた場合、

間違いなく今のままだと出産育児介護が入ってくるなーってわかる。

 

日本の「同調圧力」が怖い。

人生の選択に責任をとれるのは自分しかいないのに、それを「みんながこうだから」で解決できるのが怖い。

 

かなり昔のことだけど、政治家が「女性は産む機械」とか言っちゃう国だし、

まぁそういう世代に育てられたメンズに特になにも期待していない。

 

たぶん30くらいになったら私は「同調圧力」で酸欠状態に陥ると思う。

さっさと力をつけて、その前に日本を脱出したい。

 

きっと綺麗な写真をブログに上げられると思うので、楽しみにしていて欲しい。

笹井宏之『八月のフルート奏者』を読む(2)

 

lyrisist-lily.hatenablog.com

前回に引き続き、歌集を読んでいきましょう。

2006年

レトリックに少し、自覚的になっていく様子がうかがえるのがこの年だ。

 

冬の夜の終わり 人工衛星が季節切りつつ落ちてゆく

 

声に羽根生えてしまうを切り落としくちびるへと伝えゆかん

 

大楠をつらぬく白羽 揺れやまぬ影にふたりという孤独あり

 

日本語が熟れてゆきます うすあかりする古書店の春の詩集に

 

なんといふしづかな呼吸なのだらう蛍の群れにおほはれる川

 

どうしてもかなしくなつてしまひます あなたをつつむあめのかをりに

 

八月のフルート奏者きらきらと一人真昼の野を歩みをり

 

みづうみに沈んでゐたる秋空を十の指もて壊してしまふ

 

われが我としてあるためにみづいろの鳥を胸より放つ十五夜

 

 

私が気になったのは「日本語が熟れてゆきます」「どうしてもかなしくなってしまいます」のように歌の中に「ます」が出てきたこと。

この「ます」というのは日本語の丁寧表現だ。

 

日本語の普通体と丁寧体のちがいは、例えば以下のように述語の位置に現れる。*1

天気が回復した(普通体)

天気が回復しました(丁寧体)

でも、一体「日本語が熟れてゆきます」「どうしてもかなしくなってしまいます」の敬意の対象って何なんだろう?

敬語のレッスン

少し日本語文法の話をさせて欲しい。

敬語表現には、表現の相手に対する敬意を表す「対者敬語」と

表現される事態の中に登場する人物に対する敬意を表す「素材敬語」がある。

【対者敬語】

(1)こちらが入口です。

(2)来週、九州に出張いたします。

 

【素材敬語】

(3)鈴木先生は、いつもお忙しい。(主体「鈴木先生」に対する敬意)

(4)高津さんは鈴木先生をお宅までお送りした(受け手「鈴木先生」に対する敬意)

 この短歌が贈答歌のように特定の誰かに贈られた歌なのであれば「対者敬語」なのだけど、歌集からはそのような対象は識別できなかった。

 

だからおそらく

日本語が熟れてゆきます うすあかりする古書店の春の詩集に

 どうしてもかなしくなつてしまひます あなたをつつむあめのかをりに

 の二首で使われている「ます」は、ここに詠まれている事象そのものに対する敬意なのかもしれない、と思った。

 なかなか面白いレトリックだ。

 

2007年

少し軽快な感じの歌が増える。

手袋の中が悲しき思い出に満たされてゐて装着できぬ

 

月光に水晶体を砕かれてしまひさうなるきさらぎの宵

 

あすひらく花の名前を簡潔に未来とよべばふくらむ蕾

 

どのやうな鳥かはわからない しかし確かに初夏の声で鳴くのだ

 

泣いてゐるものは青かり この星もきつとおほきな涙であらう

 

パチスロの明かりが夜の水田を覆ふ 綺麗と思つてしまふ

 

人生はソフトテニスの壁打ちさ さうつぶやいて風にでもならう

 

この国に夢はあるかといふ問ひに大樹ははつか枝を揺らせり

 

ゆふばえに染まりつつある自転車の夢見るやうな傾き具合

 

 

なぜか2007年の歌の中で、パチスロの歌は特にハッキリと情景を結んだ。

二物衝突――パチスロの明かりと夜の水田

パチスロの明かりが夜の水田を覆ふ 綺麗と思つてしまふ

パチスロと水田の取り合わせって、そもそもシュールな光景だ。「意外な取り合わせ」とでも言おうか。

この「意外な取り合わせ」も手法として一応は確立している。

所謂「二物衝突」と呼ばれる手法で、関連のないように見える二つの事柄をぶつけ合うのが効果を生むとされる。

二物衝突の例として、以下のような俳句が挙げられる。

葬人歯あらわに泣くや曼珠沙華 飯田蛇笏師

この句は歯にフォーカスしたあと、そのバックの曼珠沙華にぱっと視点が広がる。その意外性というか、映画のカメラのような視点の切り替えが、この手法の見せどころだ。

パチスロの明かりが夜の水田を覆ふ 綺麗と思つてしまふ

二物衝突というのは、読者の「この語のあとにはこの語が来るだろう」って期待を良い意味で裏切る手法なのだろう。

この歌であれば、カメラワークとしては「パチスロの明かり」が「夜の水田」に映っている様子が描かれている。これだけでもなかなかシュールなはずなのだけど、その視点を持っている作中人物がふと「綺麗」と言うことで光景として実感が沸く。

巧いと思う。

2008年

だんだんと力の抜けた線画のような歌が増えていく。イメージとしては『クレーの天使』だ。

珈琲の湯気に眼鏡はくもりゆき、そののちみえてくる銀世界

 

太陽の死をおもふときわが死は微かな風を繕ふカーテン

 

夜深くことばの舌を絡めあふやうにしたためる一行詩

 

ゆつくりと傘をたたみぬ にんげんは雨を忘れてしまふ生き物

 

凍らねばならぬ運命(さだめ)を分ちあふ如月 われとわれのみづうみ

 

溢れては止み溢れては止みやがて寂しき井戸として星を見る

 

左手でルームミラーをあはせつつ背後の世界ばかり増えをり

 

たましひが器をえらぶつかの間を胡蝶ひとひら風に吹かるる

 

ほんのりと煤けてゐたが五年ぶりのあいつの羽根はまだ白かつた

 

顔をあらふときに気づきぬ吾のなかに無数の銀河散らばることを

 

葉桜を愛でゆく母がほんのりと少女を生きるひとときがある

 

咲きそろふマーガレットの微細なる揺れに銀河のしらべを聞きぬ

 

蜜柑の香かをらせながら君の手が吾のくびすぢへ夏を添へたり

 

名を知らぬ鳥と鳥とが鳴き交はし夏の衣はそらをおほひぬ

 

笑ひとは論ではないといふことの鳥居みゆきが振るへるバット

 

哀しみが痛みへ変はる瞬間の途切れさうなる我が蝉の声

 

透けてゆくやうに丸まりたる猫を朝陽の中にそつと掴みぬ

 

 2009年

初春のよろこびなしと言ふひとへ迎へらるるがよろこびと説く

 

波打つ音がフェードアウトしていくように、歌は消えていった。

 

 

八月のフルート奏者 (新鋭短歌シリーズ4)

八月のフルート奏者 (新鋭短歌シリーズ4)

 

 

 

笹井宏之『八月のフルート奏者』を読む(1)

やるべきことをリストアップして、それに突き進んでいる。

これはすごく単純なことで、私はこうした淡々とした日々を端的に愛している。

だけど何かの機会があって誰かと自分を比べてしまうと、どうしても自分の中の「しみ」のようなものが、じんわり広がっていくような気がする。

 

ネガティブ回路にはできるだけ嵌りたくない。

少しでも自分の気持ちの落ち込みを感じたら、好きな歌集を読むようにしている。

 

短歌のリズムで自分の気の迷いというか、心の小さな揺れのようなものが調律されて、心地いいんだ。

 

そしてブログを書いて気づいたのだけど、好きな言葉は書くと、もっと好きになれることがわかった。指先から自分の内面に入っていくような感じがするのだ。

 

これは一つの発見だった。

 

 

まぁとにかく、私が好きな歌をたくさん紹介したいと思う。

 

今日は笹井宏之『八月のフルート奏者』から歌をご紹介。

 

 

八月のフルート奏者 (新鋭短歌シリーズ4)

八月のフルート奏者 (新鋭短歌シリーズ4)

 

東直子さんの選歌5首

なお、監修者である東直子さんの選歌は以下のものだった。

 

葉桜を愛でゆく母がほんのりと少女を生きるひとときがある

八月のフルート奏者きらきらと独り真昼の野を歩みをり

雨といふごくやはらかき弾丸がわが心象を貫きにけり

ひろゆき、と平仮名めきて呼ぶときの祖母の瞳のいつくしき黒

木の間より漏れくる光 祖父はさう、このやうに笑ふひとであつた

 

水彩画のように淡い歌、そして自分と家族の距離感をやさしくなぞるような歌が選ばれている。

それでは、作成順に読んでいこう。

2004年

歌のモチーフとして「生活の中に積み重なった時間」や逆に「刹那的なもの」に対する思い入れが描かれている。

 

愛用の栞に付きし折り目より物語一行零れている

 

カレンダー捲るの忘れ長月の景色壁だけに残されている

 

君が差すオレンジ色の傘を伝うたった一粒の雨になりたし

 

君でなければならなかったのだろうか国道に横たわる子猫の骨

 

散る銀杏散らない銀杏それぞれの並木を縫いしエンジンの音

 

かららんと季節外れの風鈴にどこかに心を温められて

 

こうしてみると、一首ごとに独立しているはずなのに、それでいて全体としての統一がある。ノスタルジックな感じはどこから来るのか、特徴を見ていく。

 

この時代には「オレンジ」だとか「エンジン」といった現代的な日本語を使っているものの、第一歌の「栞につきし」の「し」のであったり、「君が差す~」の歌の「が」格の使い方や「なりたし」のような用法を混ぜて使われている。

現代日本語の語彙と、古語としての助動詞を組み合わせることでノスタルジックな感じが出てくるのだろう。

過去の助動詞について

愛用の栞に付きし折り目より物語一行零れている

 

この歌の「付きし」の「し」は過去を表す助動詞「き」の連体形だ。

現代では「た」で表す。現代の「た」だと連体形も終止形も同じ形をしているので、現代短歌で「た」を見ると句がそこで切れてしまったのではないか、と逡巡してしまってリズムが少し悪くなる気がする。

一方で「し」は連体形と終止形が「し」と「き」で異なっているから、読者にとってここちよいリズムになるんじゃないだろうか。

 

2005年

他愛ない質問「好きな色は何?」答える「今日は水色でした」

 

パソコンの起動時間に手を取りし詩集を最後まで読み通す

 

落花生食む度に落つる甘皮に人の残せるは何ぞと問う

 

床にあれど母は母なりせき込みつつ子の幸せを語りて眠る

 

百万年経って発見されるのは手を繋ぎあう二人の化石

 

密やかな夢は終わりを告げて今感じていたり唇の熱

 

永劫の暗夜に浮かぶ星青く我は風無き月の住人

 

春立ちて凍てたる疾風過ぎ去れり何処に還らん薄氷の月

 

日常を愛でる歌から始まって、「化石」あたりから幻想の世界に跳躍する。

 「同じ筆者が詠んだ歌」としてこの年の歌をまとめて読むと、

落花生食む度に落つる甘皮に人の残せるは何ぞと問う

 という歌が根底にあるような気がする。この歌だけどこか、心の深い所から出ている感じがするのだけど、どうしてだろう。

 

理由はよくわからないけれど「人の残せるは何ぞと問う」た結果として、以下の耽美的な二首がある。

永劫の暗夜に浮かぶ星青く我は風無き月の住人

春立ちて凍てたる疾風過ぎ去れり何処に還らん薄氷の月

彷徨っていた「我」の描写がここまで美しくなる、というのは良い意味で想定外だった。

以後、どことなくやさしい歌が増える。

立つことを目的として立つことを叶えた後に歩みゆきたい

 

桃色の花弁一枚拾い来て母の少女はふふと笑えり

 

一枚であること一人であることの水泡 此岸桜は流れ

 

想うとは夏の動詞か汗と汗の間にいよよ強くなりたる

 

呼び合える名があることの嬉しさにコーラの缶の露光る夏

 

霧のごとき何時を掻き抱くためわれの胸に八月のすべてがある

 

秋桜の千本あれば千本の影あり 園に夕暮れは来て

 

花束をかかえるように猫を抱くいくさではないものの喩えに

 

チェリストの弓は虚空を描きたり 最終音符を炎打して

 

「我」と名前を呼び合える関係。

現代短歌で他者を描写する時、割と指や背中といった身体の部位を描写する傾向にあると思う。

だけど笹井宏之さんは他者の描写として、あまり身体を詠み込まない。

他者を他者として描くのではなくて、あくまで「自分との関係」を描いている。これがうまく機能すると、幻想的な感じを産むのだろう。

笹井宏之さんが詠む風景や人物というのは「言葉と言葉が指し示す対象/モノ」という主従の関係ではなくて、言葉が言葉を生んでいるような、そんな感じがする。

 

長くなったので、次回に続きます。

若林正恭『表参道のセレブ犬とカバーニャ要塞の野良犬』のタイトルが長すぎてちょっと恨む

お笑い芸人、オードリー若林の「世間との距離感を掴めずにもがいている様子」がすごく好きだ。

もちろんオードリーの漫才も大好きなのだけど、若林の簡潔で熱があって、面白い文章もめちゃくちゃ良い。

 

前作のエッセイ集完全版 社会人大学人見知り学部 卒業見込 (角川文庫)は売れない日々と多忙な日々、両方のエピソードが描かれている。

風呂無しアパートで、精神をひん曲げながらも笑いを求めて生き抜いてきた姿に強く心打たれた。泣けて笑える、サイコーの作品。

 

最新作の『表参道のセレブ犬とカバーニャ要塞の野良犬』は一言でいえば若林のキューバ旅行記なのだけど、勿論それに尽きない魅力が詰まっている。

一体若林は5日間のバカンスで何を見てきたのだろう?

 (以下ネタバレあります)

若林はなんでキューバへ行ったの?

タイトルにある「カバーニャ要塞」というのはキューバの中心都市、ハバマにある要塞の名前だ。

 『表参道のセレブ犬とカバーニャ要塞の野良犬』の冒頭に、旅行のきっかけになったいくつかのエピソードが提示してある。

そのうち、コアになる部分を紹介しよう。

東大院生の家庭教師と新自由主義システム

 若林の疑問は次のような、ごく素朴な疑問をぶつける。

格差社会と言われ始めたのはいつ頃でなぜか?」

「なぜブラック企業が増えたのか?」

「なぜ交際相手にスペックという言葉が使われるようになったのか?」

若林は東大院生を家庭教師として雇って、ニュースに関する疑問について解説してもらっているそうだ。…これらの疑問に対し、東大院生の家庭教師は「新自由主義」という切り口を提示する。

 

競争相手としての他者

ここでの「新自由主義」というのはあらゆる他者を競争相手として機能させるシステムこと。

 

言ってみれば、友人も同期も「競争相手」とするシステムだ。

「やりがいのある仕事をして沢山稼ごう!」というメッセージを含んだ広告塔。若林は売れない時代、部屋にエアコンがなくて圧倒的な敗北感を覚えている。

売れるようになってからも、学校の同窓会で「稼いでるんでしょ?」と振られた時にあたふたと変な空気を作ってしまっている様子。読んでいて背中がじっとりした。

 

 自分よりも稼いでいるヤツ、自分より容姿のいいヤツ…敵を数え上げればキリがない。そうした実感をメタ的にぶった切る視点を得て、若林はものすごいツッコミを入れる。

「ちょっと待って、新自由主義に向いてる奴って、競争に勝ちまくって金を稼ぎまくりたい奴だけだよね?」

表参道のセレブ犬とカバーニャ要塞の野良犬 pp32

 すごい切れ味、すごいメタ・ツッコミだ。

…若林は「新自由主義ではないシステム」を求めて、社会主義の残り香のあるキューバに旅立った。

 

同じ視点に立てるキューバの旅

若林のキューバへの旅は、5日間の長く短いバカンスだ。

現地のガイドとキューバの要所をめぐる。照りつける鋭い日差し、葉巻とモヒート、それからチェゲバラ邸宅…ひとつひとつ、若林は丹念に味わって、最終日には一人でカリブ海に向かうのだ。

馴れない海外の路線バスに悪戦苦闘しながらも、バスから降りた時の光景が、本当に笑っちゃうくらい綺麗なカリビアン・ブルーだった。

写真は若林が撮影しているらしくて、若林と近い目線で景色が見れるのが、ファンとしてとても嬉しかった。

ぼくは思わず「ははははは!」と声を出して笑ってしまった。

なんでだろう、めちゃくちゃ綺麗な海に辿り着けたことがおかしくて仕方なかった。

表参道のセレブ犬とカバーニャ要塞の野良犬pp158

笑ってしまうくらいに美しい海、というのは神経の拘束バンドを外してしまうのだろう。若林の興奮が素直に伝わってくる。

短い遊泳を終えると、海から帰ってぶらぶらと街を出歩く。

…するとふと、一人でいるはずなのに、どこからか「他者の声」が浮かんでくる。

カストロゲバラが革命をしていなかったら、この道も日本人一人で歩けなかったかな?」

「……そうかもな」

至る所からキューバの陽気な音楽が聞こえてくる。バーから漏れ出した音に乗って手首にビニール袋をぶら下げた80歳くらいの老婆が警戒にステップを踏んでいる。

 

表参道のセレブ犬とカバーニャ要塞の野良犬 pp178

 

鍵括弧は独り言の描写なのかな?と思って読み進めると、

次の箇所に突き当たる。 

 

本心は液晶パネルの中の言葉や文字には表れない。

アメフトの話や、声や顔に宿る。

だから、人は会って話した方が絶対にいいんだ。

親父に会いたいな。

 

あー、そっか。

家族か。

家族。競争の原理の中で、絶対的な味方。

表参道のセレブ犬とカバーニャ要塞の野良犬 pp193

 

ふと、キューバは、亡くなった親父さんが行きたがっていた国だったと明かされる。

絶対的な味方であった父親が、行きたがっていた国。

 

そうしたエピソードが喪失感や悲しい物語としてではなく、温かい存在を近くに感じられる言葉で描かれる。

 

キューバの街を歩いて浮かび上がってくる言葉は、若林が欲していた言葉なのだろう。

とても温かくて、心地よい色合いだ。

 

 

競争相手ではない人間同士が話している時の表情だったのかもしれない。

 ぼくが求めていたものは、血の通った関係だった

 

表参道のセレブ犬とカバーニャ要塞の野良犬pp203)

 

競争相手ではない人間同士が話している時の表情、というのはなかなか見られない。

私自身、気づいたらどこか気を張って対抗意識を燃やしてしまう。

それにそうした、他愛のない表情はきっとすぐに忘れてしまう。

若林はもうそれに気付いていて、だからこそ、そうした素朴な光景を網膜まで焼き付けようと、あたたかい表情をたくさん見てきたようだった。

 

 感想

アドルノを引くまでもなく「アウシュビッツ以後、詩を書くことは野蛮である」。

エッセイだってそうだ。言葉と世界を天秤にかけて、ゆらゆらさせられるような世界ではない。

 『表参道のセレブ犬とカバーニャ要塞の野良犬』は物語としてちょっと綺麗に整い過ぎている気もする。

だけど陰鬱さを言語化して、笑ってもらおうとファイティングポーズをとり続ける若林が大好きだし、疲れ果てて不貞腐れている若林もとても愛おしく思う(たぶん本人は嫌だろうけど)。

そしてなによりも私は、鬱屈した気分の時に若林に笑わせてもらっている。つらい時に笑えると、マジで「希望かよ」って思う。

 

とにかく私は若林の、「選ばれないこと/持たざること」を気にするのなら、「持っているヤツ」に笑ってもらった方がいい、と言い切るスタンスがとても心地良くて、大好きなんだ。

 この目で見たかったのは競争相手ではない人間同士が話している時の表情だったのかもしれない。

 ぼくが求めていたものは、血の通った関係だった。 

 

表参道のセレブ犬とカバーニャ要塞の野良犬 pp203

 

 好きな言葉だ。

 

 

 

表参道のセレブ犬とカバーニャ要塞の野良犬