魔法使いに向いてる

「終わらない日常」 を超える処方箋

恋愛映画で頭を空っぽに

恋愛映画は面白い。

女の子のちょっと強欲な所とか
ちょっとした駆け引きを眺めていれば二時間終わる。長く短い人生だ。

個人的に、エンタメとして恋愛映画は面白いと思う。

…問題は恋愛映画から私が何も学べていないってことだ。主人公に共感することもなければイチオシポイントも教訓もない。

昔から「キャー、かわいい!」ができない。

高校生の頃からジャニーズにはしゃいだりディズニーのカチューシャをつけてご機嫌になることはできなかった。

例えば恋愛映画を観るだけだと頭がスッカスカになっていく感じがして、私はうっとりするより先に頭が空っぽになっていくのが怖くて仕方ない。

怖いから何か抵抗しようとして、せめてもの思いでこの日記を書いている。

「頭空っぽの恋愛映画を観て頭空っぽになる」ってホラー映画よりもホラーじゃないですかね。

こんなこと書いたら怒られそうだけど、褒めてるんです。上っ面だけで、こんだけの人を魅了できるのってすごいじゃないですか。


ピースオブケイク
オシャレ漫画の金字塔、ジョージ秋山の人気コミックが原作。いつもやり込められちゃう女の子が素直に気持ちをぶつけられるようになる物語。
登場人物全員がパーソナルカラーに合った服を着ていて、そちらにも注目。

『東京女子図鑑』という地獄

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Amazon primeオリジナルのドラマ、『東京女子図鑑』を観た。

自尊心の高い(よく言えば負けん気の強い)女の子が東京でキラキラした何かを求めて頑張っちゃうストーリーだ。


「人から羨ましがられる人になりたい」。

この言葉からもわかるように、主人公はどうしようもなく軽薄だ。

主人公いわく、幸せな人生には商社マンの彼氏とハリーウィンストンの結婚指輪という「アイテム」を揃える必要がある。

個人的にこういうのは眉唾モノのどうしようもない価値観なんだけど、
確かに雑誌に出てくるような理想的なOLってこんな感じで、憧れる人がいるのも理解できる。

軽薄さはシンプルな上昇志向にも結びつき、主人公は仕事にも恋にも恵まれはする。

『東京女子図鑑』の面白さを挙げるなら、東京に住まう多種多様な女の子の頭の中を観れることだろう。

「結婚しないのは相手の条件が悪いから」「バリキャリだけど不倫ばかりしてしまう」「マンションのエレベーターの入り口近くにベビーカー留めないでよ邪魔だし」

『東京女子図鑑』には主人公以外の登場人物の独白が所々に挟まっている。

決して共感してはいけない台詞なんだろうけど、
ここまでズケズケと言われた上に「反論って要するに嫉妬でしょ?」って先に感想を封じられて、ねっとりした感情の行き場がなくなってしまう。

あまりにも多くの女子が描かれていて、どれが本当に幸せなのかは描かれていない。

「みんな自分に合った場所を見つけているようです」ってだけ。

登場人物が直面する仕事や家庭についての困難は描かれているのだけど、
物質的な豊さしか幸せとして描写されてなくて観ていてしんどかった。

「物質的な豊かさ」を幸せの指標にしたら駄目だな-、とは前から思っていたけど、その気持ちを上書きすることになる作品だった。

翻って「自分は幸せか?」と思ったけど、まあまあ幸せだった。

でも「自分が他人から羨ましがられるか?/評価されるか?」って考えたら全然そんなことない。

就活の面接で「憧れの人はいますか?」って聞かれて「いません」と応えたのを思い出す。

自分が見れる他人はその人の一面でしかなくて、「良い」と思う所はあってもその人の別の面も「良い」とは限らない。

全ての面を知ることができない他人になりたいとは思わない。
魅力的な人の「良い」と思った所は取り入れるようにはしているけれど…と確かその時は応えた。


最近はコールセンターのアルバイトを始めたのだけど、研修で「第一印象を良くしましょう!」「人は見た目が100パーセント!」「愛想良く振る舞おう!」「口角を上げて声は高めに!」と叩き込まれてびびった。

人や集団って評価基準はバラバラだ。

誰かから羨ましがられる人になろうとすると、それはそれで色んな経験ができると思う。

だけど、ここ最近それで辟易している人を余りにも見すぎた。

自分は自分の幸せをきちんと求めたいし、色んな変化を楽しみたいと思う。


アンゴラ村長はポジショニングがうまかった

一時期「にゃんこスター」というお笑い芸人が話題になった。

ブームは完全に下火になったけど、
ゆるふわリズム芸(と言えるのか?)とハイテンションボイスの織りなす、なんとも言えない空気に謎の笑いが生まれていたように思う。

これまでの漫才とかコントにも
ゆるふわリズム芸の系統とハイテンションボイスの系統というのは脈々とあって、

前者なら「小梅太夫」「ヒロシ」とか
後者で高めのボイスなら「アメリカザリガニ」。低めでゲスい感じなら「ウーマンラッシュアワー」。

小梅太夫」「ヒロシ」というのからわかるように、これまでのゆるふわリズム芸…テンポの良さとかモノマネの巧さを目指してないものって自虐ネタがメインだった。

その点、アンゴラ村長(「にゃんこスター」の女の子の方)って謎の自信とポジショニングの上手さがある。

この前テレビで「ブサイクや貧乏、生まれもって変えられないものを馬鹿にする笑いは古い」

って発言してて、なかなか戦略的だなって思った。

これまで(私が観測してきた範囲での)お笑い芸人は、表立って自分たちの笑いのポリシーみたいなのを言わなかった。

M1の審査でも「ここが良かった」「ここが悪かった」みたいなことは部分的に指摘されていたけれど、加点/減点対象は何なのか、評価基準は言明されていなかった。


ここ最近では松本人志がドキュメンタルで自分のお笑い観を語ってるけど、これまでは自分のお笑いに対する評価基準を言明する流れはなかったように思える。


職人っぽいというか、「わかるだろ?」みたいな。

だからこそ『笑ってはいけない~』で「ブラックフェイス」が批判されたように、時として向こう見ずなお笑いをやってしまったりする。

これまでの時代は目の前にいる人だけが喜んでたらそれでよし、とされていて、それが美徳とする所もあったように思う。

だけどSNSでネタが部分的に拡散されて自由に意見を言えるようになって、それを観て不快に思う人の声が可視化された。

だから、メディア受けするには「誰も不快にさせない」というポリシーが必要になってきつつあるんじゃないだろうか。

自分のお笑いのポリシーみたいなのを堂々と言うアンゴラ村長からは新しい風を感じた。

これからはお笑いのポリシーを経営者みたいに語るお笑い芸人が増える気がする。

ウーマンラッシュアワーの村上、ピースの綾部はお笑いのポリシーみたいなのを出そうとはしてるんだけど、売り方に対して自覚がないような気がする)

大学生活が終わる

僕は二十歳だった。それが人生でもっとも美しいときだなんて誰にも言わせない。ニザン『エデン・アラビア』

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もう3月で卒業だ。
今日は卒論の口頭試問を終えて、ぐったりしている。

はっきり言って私の卒論はゴミクズだった。

「仮説を立てて検証する」というプロセスは守り抜いたけれど、仮説の立て方がマズかったとしか言い様がない。

取り扱ったのはは近代以降の日本語受け身文の動詞のバリエーション変化について。その変化の要因を探るものだった。

だけど、私の論だと変化前と変化後を対照的に取り扱ってなくて過渡期にどのような変化が起きていたのかにフォーカスしてしまっていて、論証として全然駄目だった。

これまで自分自身で命題を決めて検証するってことができてなかったんだと実感した。

そもそも面白い仮説の立て方やマトモな論証の仕方を学べていなかったんだと実感して、すこぶる反省している。残り少ない大学生活、少しでも多く学びたい。

今、私が関心があるのは社会科学の分野でのモデリングだ。

ある現象が生じたプロセス(変数を含むもの)を推定する能力を養いたいと思う。

自分の足りない所がよくわかったから、その点で卒論に取り組めてすごくよかった…

「大丈夫」

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『使えそうでなかなか使えない言葉ランキング』があったら、私は1位に「大丈夫」を選ぶ。

「大丈夫」って
(気にしなくてもうまくいく、安心しろ)
って自分に念押しするために使う、おまじないみたいな言葉だ。


だから、なかなか相手に対して「大丈夫」とは言えない。


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『レオン』という映画を観た。

親を殺された少女が復讐に燃え、殺し屋と奇妙な同居生活を送る物語。
このナタリー・ポートマン演じる少女「マチルダ」の透明感がとにかく素晴らしかった。

親を殺されて身寄りがなく、殺し屋に同居を求めるマチルダ。

足手まといになるからと同居を却下されるも、
彼女は「復讐できなきゃ死んだ方がマシ」と言って、レボルバーを頭に当てる。

このシーンに、ずーんと胸をやられた。

…なんだか、彼女の言動には既視感がある。

私は大学生になっても希死念慮に襲われることがあって、その度に私の恩師に電話をした。

恩師は「とにかく死んだら駄目だから」

と言い切るものの、「なぜ駄目なのか」と聞いても一切教えてくれなかった。

恩師はいつも理路整然としていたから、死なないでいる理由が不問というのは解説不足のように思っていた。

だけど、実際に大切な人が死にそうなのを目の前にすると、まず出てくるのは「死ぬな」の一言だった。

死んだらいけない理由は今でもよくわからないけれど、とにかく「死ぬな」と言うのは正しいように思える。

「貴方は大丈夫じゃないけど死んではいけません」って、地獄の沙汰かと思うけれど。

ライフスタイル教に抗う

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キリスト教イスラム教、仏教は世界中に信者がいる世界宗教だ。

だけど、最近はなんだかお洒落なシティライフを行動規範として、自己管理を戒律に設ける「ライフスタイル教」とでも呼ぶべき宗教が蔓延しているように思える。

「ライフスタイルの他に神はなし。消費者はその使徒である」

おそらくライフスタイル教の聖典の1ページ目にはこんな文言が掲げられているだろう。

彼らは新しくてスタイリッシュで話題性のあるサムシングを常に追い求める。

信者はIKEAの家具を収集、仮想通貨に一喜一憂し、消費者として死んでいく。

坂口恭平の『独立国家の作り方』という本を読んだ。

秘密基地を作るノリで独立国家を作ってしまうようなワクワク感がある一方で、筆者は意外と地に足の着いた思考をしていた。全体として、とてもドライブ感のある筆致。

本の中で「社会に対して疑問を感じたら、きちんと思考しろ」ってメッセージに出くわした時、暗い部屋のカーテンをシャッて開けた時みたいな眩しさを感じた。

部屋に籠もりっきりで面白い論文も書けてない自分がすごく恥ずかしくなってきた。

進学を目指していた頃は論文アクセプト数、就職が決まってからは年収で自分を評価しようとしていたなーと思う。そしてこの固定観念から遁れるために、敢えて惰眠をむさぼっていたような気もしている。

数値化された目標が悪いって訳じゃなくて、
何のための目標なのか。思考することを忘れていたなあと実感する。


本来、目標というのは次のようにブレークダウンされる。
目的→仮説→目標→戦略→戦術

自分の頭を顧みると、目的の所がすぽーんと抜けてたことに気づく。戦略もバラバラで、末端の数値ばかり追っていたから、まあ面白くはない。

目的の所って、誰しも「理想の自分になるため」がくるんじゃないだろうか。

ここでライフスタイル教にはまってしまうと「IKEAの家具が部屋にないから自分はミジメなのでは」「マーガレットハウエルのシャツがないから自分は惨めなのでは 」みたいな仮説を立ててしまい、思考よりモノへの欲求が先行してしまう。

すなわち、一度ライフスタイル教にはまってしまうと目に見えてわかりやすい外見的な変化を求めたり、手っ取り早くその人間を評価するために年収とかの数値を比較したりするのだろう(年収は「その人の魅力」の下位項目なのに!)。

ライフスタイル教はこの世界に蔓延している。好むと好まざるとにかかわらず、
「この商品を買えば、あなたはもっとかっこよく/可愛くなれる」みたいな、コマーシャルが流れている。

「本来、自分の理想は何なんだろう」とする問いからそういった商品が必要だというのなら、それでいい。だけど実際は、商品が思考や価値観を規定するようになってるんじゃなかろうか。

ライフスタイル教への反逆者は自分の理想の状態について、常に思考し、実行せねばならないのである。

独立国家のつくりかた (講談社現代新書)

独立国家のつくりかた (講談社現代新書)

放出

心象のいろははいいろ
あけびのつるはからまって
紅いざくろは雨に朽ち

空の基層はひくく鳴り
いかりはにがく歯を立てる

商用などや先祖など
忘れていたと言えないが

ほどけた雲におおわれて
まことのことばはうしなはれ
はぎしり燃えて溶けていく