魔法使いに向いてる

「終わらない日常」 を超える処方箋

笹井宏之『八月のフルート奏者』を読む(1)

やるべきことをリストアップして、それに突き進んでいる。

これはすごく単純なことで、私はこうした淡々とした日々を端的に愛している。

だけど何かの機会があって誰かと自分を比べてしまうと、どうしても自分の中の「しみ」のようなものが、じんわり広がっていくような気がする。

 

ネガティブ回路にはできるだけ嵌りたくない。

少しでも自分の気持ちの落ち込みを感じたら、好きな歌集を読むようにしている。

 

短歌のリズムで自分の気の迷いというか、心の小さな揺れのようなものが調律されて、心地いいんだ。

 

そしてブログを書いて気づいたのだけど、好きな言葉は書くと、もっと好きになれることがわかった。指先から自分の内面に入っていくような感じがするのだ。

 

これは一つの発見だった。

 

 

まぁとにかく、私が好きな歌をたくさん紹介したいと思う。

 

今日は笹井宏之『八月のフルート奏者』から歌をご紹介。

 

 

八月のフルート奏者 (新鋭短歌シリーズ4)

八月のフルート奏者 (新鋭短歌シリーズ4)

 

東直子さんの選歌5首

なお、監修者である東直子さんの選歌は以下のものだった。

 

葉桜を愛でゆく母がほんのりと少女を生きるひとときがある

八月のフルート奏者きらきらと独り真昼の野を歩みをり

雨といふごくやはらかき弾丸がわが心象を貫きにけり

ひろゆき、と平仮名めきて呼ぶときの祖母の瞳のいつくしき黒

木の間より漏れくる光 祖父はさう、このやうに笑ふひとであつた

 

水彩画のように淡い歌、そして自分と家族の距離感をやさしくなぞるような歌が選ばれている。

それでは、作成順に読んでいこう。

2004年

歌のモチーフとして「生活の中に積み重なった時間」や逆に「刹那的なもの」に対する思い入れが描かれている。

 

愛用の栞に付きし折り目より物語一行零れている

 

カレンダー捲るの忘れ長月の景色壁だけに残されている

 

君が差すオレンジ色の傘を伝うたった一粒の雨になりたし

 

君でなければならなかったのだろうか国道に横たわる子猫の骨

 

散る銀杏散らない銀杏それぞれの並木を縫いしエンジンの音

 

かららんと季節外れの風鈴にどこかに心を温められて

 

こうしてみると、一首ごとに独立しているはずなのに、それでいて全体としての統一がある。ノスタルジックな感じはどこから来るのか、特徴を見ていく。

 

この時代には「オレンジ」だとか「エンジン」といった現代的な日本語を使っているものの、第一歌の「栞につきし」の「し」のであったり、「君が差す~」の歌の「が」格の使い方や「なりたし」のような用法を混ぜて使われている。

現代日本語の語彙と、古語としての助動詞を組み合わせることでノスタルジックな感じが出てくるのだろう。

過去の助動詞について

愛用の栞に付きし折り目より物語一行零れている

 

この歌の「付きし」の「し」は過去を表す助動詞「き」の連体形だ。

現代では「た」で表す。現代の「た」だと連体形も終止形も同じ形をしているので、現代短歌で「た」を見ると句がそこで切れてしまったのではないか、と逡巡してしまってリズムが少し悪くなる気がする。

一方で「し」は連体形と終止形が「し」と「き」で異なっているから、読者にとってここちよいリズムになるんじゃないだろうか。

 

2005年

他愛ない質問「好きな色は何?」答える「今日は水色でした」

 

パソコンの起動時間に手を取りし詩集を最後まで読み通す

 

落花生食む度に落つる甘皮に人の残せるは何ぞと問う

 

床にあれど母は母なりせき込みつつ子の幸せを語りて眠る

 

百万年経って発見されるのは手を繋ぎあう二人の化石

 

密やかな夢は終わりを告げて今感じていたり唇の熱

 

永劫の暗夜に浮かぶ星青く我は風無き月の住人

 

春立ちて凍てたる疾風過ぎ去れり何処に還らん薄氷の月

 

日常を愛でる歌から始まって、「化石」あたりから幻想の世界に跳躍する。

 「同じ筆者が詠んだ歌」としてこの年の歌をまとめて読むと、

落花生食む度に落つる甘皮に人の残せるは何ぞと問う

 という歌が根底にあるような気がする。この歌だけどこか、心の深い所から出ている感じがするのだけど、どうしてだろう。

 

理由はよくわからないけれど「人の残せるは何ぞと問う」た結果として、以下の耽美的な二首がある。

永劫の暗夜に浮かぶ星青く我は風無き月の住人

春立ちて凍てたる疾風過ぎ去れり何処に還らん薄氷の月

彷徨っていた「我」の描写がここまで美しくなる、というのは良い意味で想定外だった。

以後、どことなくやさしい歌が増える。

立つことを目的として立つことを叶えた後に歩みゆきたい

 

桃色の花弁一枚拾い来て母の少女はふふと笑えり

 

一枚であること一人であることの水泡 此岸桜は流れ

 

想うとは夏の動詞か汗と汗の間にいよよ強くなりたる

 

呼び合える名があることの嬉しさにコーラの缶の露光る夏

 

霧のごとき何時を掻き抱くためわれの胸に八月のすべてがある

 

秋桜の千本あれば千本の影あり 園に夕暮れは来て

 

花束をかかえるように猫を抱くいくさではないものの喩えに

 

チェリストの弓は虚空を描きたり 最終音符を炎打して

 

「我」と名前を呼び合える関係。

現代短歌で他者を描写する時、割と指や背中といった身体の部位を描写する傾向にあると思う。

だけど笹井宏之さんは他者の描写として、あまり身体を詠み込まない。

他者を他者として描くのではなくて、あくまで「自分との関係」を描いている。これがうまく機能すると、幻想的な感じを産むのだろう。

笹井宏之さんが詠む風景や人物というのは「言葉と言葉が指し示す対象/モノ」という主従の関係ではなくて、言葉が言葉を生んでいるような、そんな感じがする。

 

長くなったので、次回に続きます。