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なぜ文学は「死んだ作家の文章」研究対象にするのか

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誰かに言う機会もないのでここに書き溜めておく。

一年くらい前、ゼミで「どうして文学研究って死んだ作家の文章しか研究対象にしないんだろうね」って話が出て、その時私はすっと答えが出なかった。

だからといって文学研究科の教員に聞きに行くこともなく、この論題については頭の片隅でずっともやもやしていた。

 

だけど、ちょっと仮説めいたものは立てられた気がする。

「文学研究者が、生きている作家の文章はあまり研究対象にしたがらない」理由は、結論から言えば「生きている者はテクストだけで評価できない」からだ、と思う。

 

文学研究の流れ

文学研究は大きく分けて「書かれた作品」をみるテクスト論と「書いた人」の手記だったり人間関係だったりといった社会的背景をみる作者論がある。

あとは1970年代後半に物語の体系(≒記号的構成)を記述するような流れもあるけど、たぶんそれは文化記号学に入る。

 

ここでは詳しくは触れないので、文化記号論について気になる人は以下の本を読んでください。

文化とコミュニケーション―構造人類学入門 (文化人類学叢書)

文化とコミュニケーション―構造人類学入門 (文化人類学叢書)

 

 

 

本筋に戻ろう。

文学研究が「生きている人間を研究対象にできない」理由は「作家が死なないと、作家論ができないから」なんじゃないだろうか。

文学では死んだ作者の作品しか研究対象にならないのか?

人間は、人間を文章だけでは評価できなくて、どうしてもテクスト(=書かれたもの)の背後にある作者や作者の属性のことを考えてしまう。

 

仮に作者が「この文章はこういう意図で書いたんです」って「あとがき」とかで言ったとして、それは「本人がそう言っている」というメタ的なことしか言えない。


だけど読者は「こんなにも素晴らしい文章を書くのなら、きっと素晴らしい経歴の持ち主なのだろう」といった風に想像を繰り広げていってしまう。

 

…だけどテクストの向こうに作者の存在、経歴、思考を仮定し続ける限り、はじめに感じた「どうしてこんな文章を書いたのだろう」といった疑問は解消されない。

だってそのような「作者」は検証できない仮定でだから……

 

それで文学研究では、テクストの読解が行き詰まってしまうと作者論であったり、同時代のバックグラウンドの調査に向かってしまう。


そうすると日記や手紙といったプライベートのことも考察対象にしないといけなくなって「生きている作家」はどうしてもプライバシーの関係で研究しにくくなる。


村上春樹が高校時代の本の貸し出し手続きの記録が本人の無許可で公開されて問題になったりもした。

www.sankei.com

体験を切り取り、共有可能にする「物語」

自分の思考とぴったりと一致した言葉なんてものは、そもそも存在しない。


頭の中にある、もやっとした概念を既成の言葉の枠組みで切り取っているだけ。


例えば「林檎」って言葉にこれまで遭遇したすべての「林檎」を思い出して居たら、とてもじゃないけど生活できない。

 

私の考える「林檎」とあなたの考える「林檎」は違う。

もちろん「林檎」から「赤い」とか「デリシャス」といった連想語を抽出して頻度の高いものを定義とすることはできるのだけど、単語だけでは体験や思考を共有できない。

だけど/だからこそ、物語は作者が自身の体験を切り取り、文章として魅力的な構成にするのだろう。

 

だから物語は文章の集合じゃないし、文章は言葉の集合ではない。

もちろん包含関係ではあるけれど、そもそも自然言語を完全な集合で表すことはできない。

文章は、語の集合以上の力学的関係があるように思う。それが構文なのか文法なのかはよくわからないけれど。

 

少なくとも出来る限り腰を据えて「どうしてこんな文章を書いたのだろう」と考え続けることで、既存の手段とはまた違った物語の研究ができると信じている。