魔法使いに向いてる

「終わらない日常」 を超える処方箋

椎名林檎の歌詞で歌枕について解説するよ!

歌枕とは「和歌や短歌によく詠まれる地名」のことです。

その風景を詠み込んだものというよりかは、その言葉の持つイメージを利用しているものが多いです。

 

あふさかの せきにながるる いはしみづ いはでこころに おもひこそすれ

(『古今和歌集』巻第十一・恋一)

「好きな人に逢えない苦しさを言いふらすような真似はしないが、その思いは涙となって出てきてしまう」といった趣意ですね。

清流と涙のイメージが清らかに連鎖していて、とても美しい一首だと思います。

この和歌の歌枕は「あふさかのせき」「いはしみづ」ですね。

「あふさかのせき」というのは「逢う」(=逢瀬をする)と「関」(=関所、転じて障害物のようなもの)の掛詞でもあります。

「いはしみづ」は当時この逢坂の関にあったという岩の上を流れていた清水のことらしいです。

 

現代短歌における歌枕の不在

そんな歌枕は近代短歌でも存在しているようです。

佐々木幸綱さんは『短歌』(1995,5)で歌枕のことを「近代短歌の読者が幻想を共有できる地名」としています。

確かに春日井健、土屋文明などが歌枕で作歌していますね。

しかしながら現代短歌の時代には地名を詠み込んだ歌ってなかなかないんですよね。

佐々木幸綱さんの定義からすれば、短歌の読者が共同幻想を抱ける地名がもはや存在しない、ということなんでしょうか。

しかし一方で、現代短歌では代わりに次のような「店の名前」を詠み込んだ歌が多く見られるような気がします。

明治屋に初めて二人で行きし日の苺のジャムの一瓶終わる 俵万智

明治屋ってちょっといい感じの食料品店のことですね。

付き合いたての、何を一緒にしても嬉しく感じてしまう初々しさを「明治屋」「苺ジャム」でかわいく表現していますね。

明治屋で買った苺ジャムを使い果たすまでの時間の間に、二人の関係は変化したのでしょうか。

そこまでは読み取ることはできませんが、この歌から、二人で初めて明治屋に行った、まぶしい思い出をじんわり感じている「私」が読み取れますね。

現代版歌枕としての歌詞

現代短歌では歌枕はあんまり詠まれなくなったような気がするんですが、

それに代わって、JPOPの歌詞に地名

が出やすくなったように思います


謡曲とJPOPの違いもよくわからないけど、昔の曲ってあんまり固有名詞出てなくないですか?

例えば北島三郎の『まつり』はどこの祭りなのかよくわからないですよね。

固有名詞を使わないことで共感を呼び起こしていたのでしょうか。


しかし時代が変わると固有名詞が歌われるようになる。

よりアーティストの繊細なものに対する、個人的な思い入れが詩情として評価されるようになる。そんな気がします。


その代表例として、私は椎名林檎の『丸の内サディスティック』を挙げてみたい。


椎名林檎 - 丸の内サディスティック


『丸の内サディスティック』の歌詞に丸の内は出てこないんですが、銀座や御茶ノ水といった地名は出てきますよね。

東京で働いたことなくても、なんだかその人の生活のイメージが掴めてしまう。これってすごいことだと思いませんか?

先の項の歌枕の定義からすると、歌枕って「共同幻想」を担保する地名のことですよね。

椎名林檎の歌詞に出てくる地名に関しては、彼女自身が歌い上げることで、歌詞の中の登場人物はまさしく歌い手の椎名林檎のように思えてしまうんです。

ひとつの共同幻想としての椎名林檎の出来上がりです。


他の代表例は『群青日和』の「新宿は豪雨」「突き刺す十二月と伊勢丹の息が合わさる衝突地点」でしょうか。


東京事変 - 群青日和

私は曲のイメージが強すぎて、新宿へ行くたびに「豪雨じゃない…」って思ってしまいます。

 

おわりに

歌枕について、短歌に興味がない人でも面白く読めるように解説してみました。

ここまで読んでくださってありがとうございました。

 

 あ、短歌は読むだけじゃなくて、作ってみると面白いですよ!

なかでも岡井隆さんの『今はじめる人のための短歌入門』はオススメです。

 

またコナン君映画の解説も書いてみようと思います~

ではではごきげんよう

 

 

 

*1

 

 

*1:現代短歌をどこを起点にするかよくわからないけど、岡井隆塚本邦雄寺山修司などの”前衛短歌”か穂村弘あたりの”ニューウェーブ”かのどちらかでしょう。どちらを起点としても、地名を読んだ歌の出現頻度ってめちゃくちゃ低い。