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魔法使いに向いてる

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岡真理『記憶/物語』:語り得ない出来事を語ろうとすること

書籍

【岡真理『記憶/物語』】

アフリカで子供が飢えて死んでいるとき、文学は無力であるとかつてサルトルは言った。彼は文学を文学は無能である」と言った。

この本では、パレスチナ問題という〈出来事〉がパレスチナ人以外に忘却されている現実を指摘し、出来事の忘却が暴力となり得るのだと糾弾する。

土地を奪われ、オリーブの畑を奪われ、オレンジの畑を奪われ、家を奪われ、家族を奪われ、人間の尊厳をも奪われて難民となり、半世紀がたったいまでも難民として生きているという〈出来事〉、そして、その間絶えず、彼らの身に虐殺という〈出来事〉が反復されているということは、ほとんど知られていない。私たちがそれらについて知らないということ、それらの名前の世界的な忘却が、それらの暴力的な〈出来事〉が繰り返し繰り返しパレスチナ人の身に再起することを可能にしているのも要因である。

(岡真理『記憶/物語』pⅷ)

出来事を語ること、そして語られた言葉に耳を澄ますこと。

戦争が日常の人――同じ町の住人が毎月数名殺される人――にとって、

文学というものは一体どんな意味を持つのだろうか。

語られた言葉から零れ落ちるものを見つめなければならないと説く。小説であれ映画であれ、表象されるものは実際に体験された〈出来事〉をすべて伝えることはできない。表象されたものは言葉や映像によって切り取られた〈出来事〉の破片に過ぎないのだ。岡はスピルバーグの『シンドラーのリスト』のリアルさが、〈出来事〉のすべてを語るように振舞う傲慢さを指摘する。

研究者としてアラブ文学の分析をしながら、パレスチナ問題を生きている人との対話を通して、表象されたものと、実際に起こったものとの乖離をまじまじと体験してきているのだろう。「戦場の体験とは、もっと断片的なものなのではないか」と語る岡は、文学の分析や著者の経験を通して、表象するものとされるもの、出来事を伝える自己と他者との間の亀裂を描こうとする。

何か根源的な体験であればあるほどーー私たちがまず、感ぜずにおれないのは、むしろ、言語というものの徹底的な不自由さのほうではないだろうか。(略)出来事が私たちの手持ちの言葉の輪郭にあわせて切り取られるとき、私たちは、言葉で語られた出来事が、出来事そのものよりもどこか矮小化されてしまったような、どこかずれているような、そんな風には感じないだろうか。

(同上p7)

 

〈出来事〉の内にいるものと外にいるものとの間では、起こったことを完全に共有することは不可能だ。それでも〈出来事〉は語られなければならない。

日常と化した占領という暴力を生きるパレスチナ難民の生を描いた『アーミナの縁結び』から引けば、物語を語らなければ、「敵のものになってしまう」からだ。実際、イスラエルはかつてパレスチナ人が住んでいた村を破壊し、オリーブの樹を切り倒して松や杉を植え、パレスチナ人のかつての生活を「なかったこと」にしようとしている。

記憶の共有が不可能だとわかっていても、それでも出来事を語ること、記憶の分有の必要性を岡真理は説いている。