魔法使いに向いてる

「終わらない日常」 を超える処方箋

村上春樹『1973年のピンボール』:「それだけのことだ」で世界は回る

今週のお題「読書の夏」

何もかもが同じことの繰り返しに過ぎない、そんな気がした。限りのないデジャ・ヴュ、繰り返すたびに悪くなっていく。

村上春樹1973年のピンボール』 (以下の引用文はすべて同じ著作による)

季節ごとに読み返したくなる小説がある。本を読み返すと、はじめて読んだ時には気にならなかった細部が気になりだしたり、馴染みのある文句に懐かしさを感じたりする。ここには、ちょうど旧友と再会する時のような緊張感と新鮮味がある。

 

村上春樹の『1973年のピンボール』は、再読したくなる小説のひとつだ。

前作『風の歌を聴け』の続編と位置づけられていて、登場人物も舞台もほとんど変わらない。主人公は淡々と世界と向き合い、ビールを飲み、双子と暮らす。物語と言えるようなテーマはなく、寓話のような教訓もない。読んで感傷的になったり、熱を掻き立てられることもない。たぶん、そういったものは他の作家に求めるべきなんだろう。

1973年のピンボール』は、いわば"スケッチ”のような文章で構成されている。読んでいるうちに世界の輪郭が見えてくる作品だ。

主人公の「僕」は淡々と生きている。読者はその生活を垣間見るような形で物語は進む。作品の中で繰り返される「それだけのことだ」という言葉は、生きることの陰鬱さを軽快さに蹴り上げる。

多かれ少なかれ、誰もが自分のシステムに従って生き始めていた。それが僕のと違いすぎると腹が立つし、似すぎていると悲しくなる。それだけのことだ。

 

僕の心と誰かの心がすれ違う。やあ、と僕は言う。やあ、と向こうも答える。それだけだ。誰も手を上げない。誰も二度と振り向かない。

上の二つの引用は、おそらく自己と他者の関係を的確に示している。

端的に言えば、すれ違いの集積。

それでも「僕」は絶望はしない。

「そういうもの」として世界はあるからだ。自己の中に刻まれた亀裂、他者との距離感は前提として存在する。自分の内面が掴めないと嘆く日には、「僕」の達観した言葉に触れたくなる。