魔法使いに向いてる

「毎日を少し良くする」ためのお手伝い

「大丈夫」と言える透明感ーー個人的経験と『レオン』のマチルダの少女性

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『使えそうでなかなか使えない言葉ランキング』があったら、私は1位に「大丈夫」を選ぶ。

「大丈夫」って
(気にしなくてもうまくいく、安心しろ)
って自分に念押しするために使う、おまじないみたいな言葉だ。


だから、なかなか相手に対して「大丈夫」とは言えない。


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『レオン』という映画を観た。

親を殺された少女が復讐に燃え、殺し屋と奇妙な同居生活を送る物語。
このナタリー・ポートマン演じる少女「マチルダ」の透明感がとにかく素晴らしかった。

親を殺されて身寄りがなく、殺し屋に同居を求めるマチルダ

足手まといになるからと同居を却下されるも、
彼女は「復讐できなきゃ死んだ方がマシ」と言って、レボルバーを頭に当てる。

このシーンに、ずーんと胸をやられた。

…なんだか、彼女の言動には既視感がある。

私は大学生になっても希死念慮に襲われることがあって、その度に私の恩師に電話をした。

恩師は「とにかく死んだら駄目だから」

と言い切るものの、「なぜ駄目なのか」と聞いても一切教えてくれなかった。

恩師はいつも理路整然としていたから、死なないでいる理由が不問というのは解説不足のように思っていた。

だけど、実際に大切な人が死にそうなのを目の前にすると、まず出てくるのは「死ぬな」の一言だった。

死んだらいけない理由は今でもよくわからないけれど、とにかく「死ぬな」と言うのは正しいように思える。

「貴方は大丈夫じゃないけど死んではいけません」って、地獄の沙汰かと思うけれど。

人生と植物のメタファー

少しずつ植物を育てていこうと思う。

 

下手に他人の人生に首を突っ込むよりも、

淡々と植物の世話をするのが好きだ。

 

言葉を持つ生き物は、あれこれ余計なことを考えてしまう。

 

一方、植物は根を張り茎をのばすことだけが生存戦略なので、

生きる方法がずっとずっとシンプルだ。

 

抽象的に物事を考えてうまくいかない時、

「うまい比喩」というのは役に立つ。

 

例えば人生を樹木に例えて、ニーチェは次のように言う。

 

「樹木にとって最も大切なものは何かと問うたら、

それは果実だと誰もが答えるだろう。

しかし実際には種なのだ」

 

 

自分の人生を樹木に例えるのなら、今は花を咲かせるのに必死にもがいている時期だし、きっと花を咲かせたら「花を散らすまい」って躍起になるだろう。

だけど本当に大切なのはそれを実らせ、次の世代に繋げる事。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

…というのはただの心象スケッチだ。

わざわざ文章にしなくても傷口にしみる程、本当に痛いくらいによくわかってる。

 

 

自分には思考の癖があって、物事を逆から考える。

 

ニーチェの名言だったら

「要するに種なんでしょ?次世代の育成なんでしょ?」って。

 

そんでもって「女性にとっての種とは何か」って問を立てた場合、

間違いなく今のままだと出産育児介護が入ってくるなーってわかる。

 

日本の「同調圧力」が怖い。

人生の選択に責任をとれるのは自分しかいないのに、それを「みんながこうだから」で解決できるのが怖い。

 

かなり昔のことだけど、政治家が「女性は産む機械」とか言っちゃう国だし、

まぁそういう世代に育てられたメンズに特になにも期待していない。

 

たぶん30くらいになったら私は「同調圧力」で酸欠状態に陥ると思う。

さっさと力をつけて、その前に日本を脱出したい。

 

きっと綺麗な写真をブログに上げられると思うので、楽しみにしていて欲しい。

笹井宏之『八月のフルート奏者』を読む(2)

 

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前回に引き続き、歌集を読んでいきましょう。

2006年

レトリックに少し、自覚的になっていく様子がうかがえるのがこの年だ。

 

冬の夜の終わり 人工衛星が季節切りつつ落ちてゆく

 

声に羽根生えてしまうを切り落としくちびるへと伝えゆかん

 

大楠をつらぬく白羽 揺れやまぬ影にふたりという孤独あり

 

日本語が熟れてゆきます うすあかりする古書店の春の詩集に

 

なんといふしづかな呼吸なのだらう蛍の群れにおほはれる川

 

どうしてもかなしくなつてしまひます あなたをつつむあめのかをりに

 

八月のフルート奏者きらきらと一人真昼の野を歩みをり

 

みづうみに沈んでゐたる秋空を十の指もて壊してしまふ

 

われが我としてあるためにみづいろの鳥を胸より放つ十五夜

 

 

私が気になったのは「日本語が熟れてゆきます」「どうしてもかなしくなってしまいます」のように歌の中に「ます」が出てきたこと。

この「ます」というのは日本語の丁寧表現だ。

 

日本語の普通体と丁寧体のちがいは、例えば以下のように述語の位置に現れる。*1

天気が回復した(普通体)

天気が回復しました(丁寧体)

でも、一体「日本語が熟れてゆきます」「どうしてもかなしくなってしまいます」の敬意の対象って何なんだろう?

敬語のレッスン

少し日本語文法の話をさせて欲しい。

敬語表現には、表現の相手に対する敬意を表す「対者敬語」と

表現される事態の中に登場する人物に対する敬意を表す「素材敬語」がある。

【対者敬語】

(1)こちらが入口です。

(2)来週、九州に出張いたします。

 

【素材敬語】

(3)鈴木先生は、いつもお忙しい。(主体「鈴木先生」に対する敬意)

(4)高津さんは鈴木先生をお宅までお送りした(受け手「鈴木先生」に対する敬意)

 この短歌が贈答歌のように特定の誰かに贈られた歌なのであれば「対者敬語」なのだけど、歌集からはそのような対象は識別できなかった。

 

だからおそらく

日本語が熟れてゆきます うすあかりする古書店の春の詩集に

 どうしてもかなしくなつてしまひます あなたをつつむあめのかをりに

 の二首で使われている「ます」は、ここに詠まれている事象そのものに対する敬意なのかもしれない、と思った。

 なかなか面白いレトリックだ。

 

2007年

少し軽快な感じの歌が増える。

手袋の中が悲しき思い出に満たされてゐて装着できぬ

 

月光に水晶体を砕かれてしまひさうなるきさらぎの宵

 

あすひらく花の名前を簡潔に未来とよべばふくらむ蕾

 

どのやうな鳥かはわからない しかし確かに初夏の声で鳴くのだ

 

泣いてゐるものは青かり この星もきつとおほきな涙であらう

 

パチスロの明かりが夜の水田を覆ふ 綺麗と思つてしまふ

 

人生はソフトテニスの壁打ちさ さうつぶやいて風にでもならう

 

この国に夢はあるかといふ問ひに大樹ははつか枝を揺らせり

 

ゆふばえに染まりつつある自転車の夢見るやうな傾き具合

 

 

なぜか2007年の歌の中で、パチスロの歌は特にハッキリと情景を結んだ。

二物衝突――パチスロの明かりと夜の水田

パチスロの明かりが夜の水田を覆ふ 綺麗と思つてしまふ

パチスロと水田の取り合わせって、そもそもシュールな光景だ。「意外な取り合わせ」とでも言おうか。

この「意外な取り合わせ」も手法として一応は確立している。

所謂「二物衝突」と呼ばれる手法で、関連のないように見える二つの事柄をぶつけ合うのが効果を生むとされる。

二物衝突の例として、以下のような俳句が挙げられる。

葬人歯あらわに泣くや曼珠沙華 飯田蛇笏師

この句は歯にフォーカスしたあと、そのバックの曼珠沙華にぱっと視点が広がる。その意外性というか、映画のカメラのような視点の切り替えが、この手法の見せどころだ。

パチスロの明かりが夜の水田を覆ふ 綺麗と思つてしまふ

二物衝突というのは、読者の「この語のあとにはこの語が来るだろう」って期待を良い意味で裏切る手法なのだろう。

この歌であれば、カメラワークとしては「パチスロの明かり」が「夜の水田」に映っている様子が描かれている。これだけでもなかなかシュールなはずなのだけど、その視点を持っている作中人物がふと「綺麗」と言うことで光景として実感が沸く。

巧いと思う。

2008年

だんだんと力の抜けた線画のような歌が増えていく。イメージとしては『クレーの天使』だ。

珈琲の湯気に眼鏡はくもりゆき、そののちみえてくる銀世界

 

太陽の死をおもふときわが死は微かな風を繕ふカーテン

 

夜深くことばの舌を絡めあふやうにしたためる一行詩

 

ゆつくりと傘をたたみぬ にんげんは雨を忘れてしまふ生き物

 

凍らねばならぬ運命(さだめ)を分ちあふ如月 われとわれのみづうみ

 

溢れては止み溢れては止みやがて寂しき井戸として星を見る

 

左手でルームミラーをあはせつつ背後の世界ばかり増えをり

 

たましひが器をえらぶつかの間を胡蝶ひとひら風に吹かるる

 

ほんのりと煤けてゐたが五年ぶりのあいつの羽根はまだ白かつた

 

顔をあらふときに気づきぬ吾のなかに無数の銀河散らばることを

 

葉桜を愛でゆく母がほんのりと少女を生きるひとときがある

 

咲きそろふマーガレットの微細なる揺れに銀河のしらべを聞きぬ

 

蜜柑の香かをらせながら君の手が吾のくびすぢへ夏を添へたり

 

名を知らぬ鳥と鳥とが鳴き交はし夏の衣はそらをおほひぬ

 

笑ひとは論ではないといふことの鳥居みゆきが振るへるバット

 

哀しみが痛みへ変はる瞬間の途切れさうなる我が蝉の声

 

透けてゆくやうに丸まりたる猫を朝陽の中にそつと掴みぬ

 

 2009年

初春のよろこびなしと言ふひとへ迎へらるるがよろこびと説く

 

波打つ音がフェードアウトしていくように、歌は消えていった。

 

 

八月のフルート奏者 (新鋭短歌シリーズ4)

八月のフルート奏者 (新鋭短歌シリーズ4)

 

 

 

笹井宏之『八月のフルート奏者』を読む(1)

やるべきことをリストアップして、それに突き進んでいる。

これはすごく単純なことで、私はこうした淡々とした日々を端的に愛している。

だけど何かの機会があって誰かと自分を比べてしまうと、どうしても自分の中の「しみ」のようなものが、じんわり広がっていくような気がする。

 

ネガティブ回路にはできるだけ嵌りたくない。

少しでも自分の気持ちの落ち込みを感じたら、好きな歌集を読むようにしている。

 

短歌のリズムで自分の気の迷いというか、心の小さな揺れのようなものが調律されて、心地いいんだ。

 

そしてブログを書いて気づいたのだけど、好きな言葉は書くと、もっと好きになれることがわかった。指先から自分の内面に入っていくような感じがするのだ。

 

これは一つの発見だった。

 

 

まぁとにかく、私が好きな歌をたくさん紹介したいと思う。

 

今日は笹井宏之『八月のフルート奏者』から歌をご紹介。

 

 

八月のフルート奏者 (新鋭短歌シリーズ4)

八月のフルート奏者 (新鋭短歌シリーズ4)

 

東直子さんの選歌5首

なお、監修者である東直子さんの選歌は以下のものだった。

 

葉桜を愛でゆく母がほんのりと少女を生きるひとときがある

八月のフルート奏者きらきらと独り真昼の野を歩みをり

雨といふごくやはらかき弾丸がわが心象を貫きにけり

ひろゆき、と平仮名めきて呼ぶときの祖母の瞳のいつくしき黒

木の間より漏れくる光 祖父はさう、このやうに笑ふひとであつた

 

水彩画のように淡い歌、そして自分と家族の距離感をやさしくなぞるような歌が選ばれている。

それでは、作成順に読んでいこう。

2004年

歌のモチーフとして「生活の中に積み重なった時間」や逆に「刹那的なもの」に対する思い入れが描かれている。

 

愛用の栞に付きし折り目より物語一行零れている

 

カレンダー捲るの忘れ長月の景色壁だけに残されている

 

君が差すオレンジ色の傘を伝うたった一粒の雨になりたし

 

君でなければならなかったのだろうか国道に横たわる子猫の骨

 

散る銀杏散らない銀杏それぞれの並木を縫いしエンジンの音

 

かららんと季節外れの風鈴にどこかに心を温められて

 

こうしてみると、一首ごとに独立しているはずなのに、それでいて全体としての統一がある。ノスタルジックな感じはどこから来るのか、特徴を見ていく。

 

この時代には「オレンジ」だとか「エンジン」といった現代的な日本語を使っているものの、第一歌の「栞につきし」の「し」のであったり、「君が差す~」の歌の「が」格の使い方や「なりたし」のような用法を混ぜて使われている。

現代日本語の語彙と、古語としての助動詞を組み合わせることでノスタルジックな感じが出てくるのだろう。

過去の助動詞について

愛用の栞に付きし折り目より物語一行零れている

 

この歌の「付きし」の「し」は過去を表す助動詞「き」の連体形だ。

現代では「た」で表す。現代の「た」だと連体形も終止形も同じ形をしているので、現代短歌で「た」を見ると句がそこで切れてしまったのではないか、と逡巡してしまってリズムが少し悪くなる気がする。

一方で「し」は連体形と終止形が「し」と「き」で異なっているから、読者にとってここちよいリズムになるんじゃないだろうか。

 

2005年

他愛ない質問「好きな色は何?」答える「今日は水色でした」

 

パソコンの起動時間に手を取りし詩集を最後まで読み通す

 

落花生食む度に落つる甘皮に人の残せるは何ぞと問う

 

床にあれど母は母なりせき込みつつ子の幸せを語りて眠る

 

百万年経って発見されるのは手を繋ぎあう二人の化石

 

密やかな夢は終わりを告げて今感じていたり唇の熱

 

永劫の暗夜に浮かぶ星青く我は風無き月の住人

 

春立ちて凍てたる疾風過ぎ去れり何処に還らん薄氷の月

 

日常を愛でる歌から始まって、「化石」あたりから幻想の世界に跳躍する。

 「同じ筆者が詠んだ歌」としてこの年の歌をまとめて読むと、

落花生食む度に落つる甘皮に人の残せるは何ぞと問う

 という歌が根底にあるような気がする。この歌だけどこか、心の深い所から出ている感じがするのだけど、どうしてだろう。

 

理由はよくわからないけれど「人の残せるは何ぞと問う」た結果として、以下の耽美的な二首がある。

永劫の暗夜に浮かぶ星青く我は風無き月の住人

春立ちて凍てたる疾風過ぎ去れり何処に還らん薄氷の月

彷徨っていた「我」の描写がここまで美しくなる、というのは良い意味で想定外だった。

以後、どことなくやさしい歌が増える。

立つことを目的として立つことを叶えた後に歩みゆきたい

 

桃色の花弁一枚拾い来て母の少女はふふと笑えり

 

一枚であること一人であることの水泡 此岸桜は流れ

 

想うとは夏の動詞か汗と汗の間にいよよ強くなりたる

 

呼び合える名があることの嬉しさにコーラの缶の露光る夏

 

霧のごとき何時を掻き抱くためわれの胸に八月のすべてがある

 

秋桜の千本あれば千本の影あり 園に夕暮れは来て

 

花束をかかえるように猫を抱くいくさではないものの喩えに

 

チェリストの弓は虚空を描きたり 最終音符を炎打して

 

「我」と名前を呼び合える関係。

現代短歌で他者を描写する時、割と指や背中といった身体の部位を描写する傾向にあると思う。

だけど笹井宏之さんは他者の描写として、あまり身体を詠み込まない。

他者を他者として描くのではなくて、あくまで「自分との関係」を描いている。これがうまく機能すると、幻想的な感じを産むのだろう。

笹井宏之さんが詠む風景や人物というのは「言葉と言葉が指し示す対象/モノ」という主従の関係ではなくて、言葉が言葉を生んでいるような、そんな感じがする。

 

長くなったので、次回に続きます。

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読書の二つの目的

読書には2種類ある

本を読む目的は二種類ある。

一つは情報収集のため。もう一つは楽しみのため。

 

私はどちらにせよ、本を読むのが大好きだ。

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情報収集としての読書

今年に入ってから二度、後輩に「どうやって勉強したんですか」と聞かれた。

一度目はゼミで。二度目はインターンシップのイベントで。

 

私がマーケティングテキストマイニングの小話をしたら、

「そういう授業がない」と言われた。

 

うんうん、わかるわかる。でもな、それ私もそうなんだ。

でもな、仕事や研究で必要だから独学してるんだよ…。

 

私は勉強をすることは本を読むこととほとんど同義だと思っているから、

「どうやって勉強したんですか」と聞かれた時、きょとんとしてしまった。

 

「え、ふつーにでかい本屋とか図書館の書架にいって、面白そうな本を読んだら」というけど、なんだか納得してもらえなかった。

 

(結局、ゼミの後輩のためにテキストマイニングについてまとめた資料を作っても読んでくれてないっぽかった。そもそも勉強する気がなかったのだろうか…)

「夏」「植物」「花」などがテーマのフリー写真画像:IMG_2908.JPG

良書をまとめる意義

しかしながら、良書をまとめることには意義があると思っている。

 

というのも、私のモットーに「相手ためになる事をする」というのがあって

 

オススメ本をまとめる≒相手の本を選ぶ手間を省くこと≒相手の為になる

という図式があるからだ。

 

これまで人文学系の良書とネタ収集に役立つ本をまとめている。

lyrisist-lily.hatenablog.com

 

lyrisist-lily.hatenablog.com

 今度も自分が読んでよかった本については、まとめて紹介したいと思う。

それには、何らかのテーマを設定する必要があるのだけど…

アラブ文学、テキストマイニングマーケティングあたりはまとめると思う。

 

もうひとつの読書

情報を収集するための読書ではなくて、「楽しみの読書」というのも存在すると思っている。誤解を恐れずに言えば、漫画やゲームを楽しむように本を読むのだ。

 

日本はどうしてなかなか、こうした文化はすごく発達している。

文化という概念は曖昧だから市場規模でみようか。

 

国内市場規模でいえば家庭用ゲーム機で1532億円、漫画で4570億円。

スマホゲームや海外市場を含めるともっとすごいことになり、

どっかの国家予算は軽く超える。二次元の世界で国家が作れるんじゃないか。

 

市場規模、というのはわかりやすい尺度だ。

人の欲望を換金して、比較することができる。

 

これだけ人々が渇望する物語を提供し続けることは、

素直に本当にすごいと思う。

 

残念ながら私は「何度でも読み返したい」と思える漫画や「ここから人生を学べる」と思えるゲームと出会ったことがない。

 

だけどきっと、そういう漫画やゲームはこの世に存在しているのだろうし、

そうでなければここまで人々が欲望しないはずだ。

 

ちなみに歌人の黒瀬さんはそうした空想世界を美しく切り取っていて、

私の知らない世界への憧憬を掻き立てる。

今日もまた渚カヲルが凍蝶の愛を語りに来る春である(黒瀬珂瀾*1

 

 

lyrisist-lily.hatenablog.com

カロンとしての詩

多くの人にとって、詩を読む機会ってほとんどないんじゃないだろうか。

だけど美しい文章を読むことは美しい風景を見る事、素敵なものを口にすることと同じくらい価値があると思う。

 

というか私は詩はマカロンだと思っている。

 

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カロンはいくら食べてもお腹はふくれないし、言ってみれば卵白と砂糖の塊でしかない。だけど、ひとつ口にすると人生に希望が持てるというか、自分が素敵な存在になったような気分になれる。

これと詩も同じで、読んでいると明日も生きて行こうという気持ちや「美しさに目を向けよう」という気力が湧いてくる。

 

読み過ぎることができない詩

ちなみに私は昨年の夏、現代詩文庫を読破しようと図書館に籠っていたことがある。

しかしながら現代詩のアナーキーな文法や単語を浴びすぎて、自分の日本語の運用能力が危ぶまれるようになった。だからこの試みは中止した。

やはり詩は少しずつ読むのがいいと思うし、好きなものを繰り返し読んだ方が「味わい方」がわかってくる。

詩はほとんどが短編なので「寝る前に少しだけ読む」ということができるし、いい精神安定剤になる(こともある)。

 

石川啄木の『一握の砂・悲しい玩具』で眠りの中へ

私は浪人生の頃、不安で眠れない時に石川啄木の『一握の砂・悲しい玩具』を読んでいた。

波に揺れるような七五調が、私をどこか遠い所に連れて行ってくれるような感じがして、読んでいるうちにすっと眠りにつけたのだ。

一握の砂・悲しき玩具―石川啄木歌集 (新潮文庫)

そういうわけで、私が好きな詩について、今週は更新していこうと思う。

もう一週間の折り返しだけど、これから巻き返すよ。

 

 

*1:凍蝶…寒さのため凍てついたようになる蝶のこと。飛んでも鈍く、ほ
とんどは動かない。哀れさという点では「冬の蝶」より差し迫
った感じがある。

季語・凍蝶

「言語の科学」とはなにか

今週のお題「テスト」

 

一度受験で失敗してから、こつこつ勉強するようになった。

…というのは間違いかもしれない。

 

大学生になって、人生をかけて追究したいと思うことに出会えたから、勉強するようになったような気もする。

 

今日は自分の専攻である言語学について、書いてみよう。

言葉というのは不思議で、「どうしてそうなっているのか」を知らなくても使うことができる。ちょうど電子レンジの仕組みがわからなくても、お惣菜を温められるように。

 でも、思ったように言葉が使えない経験がある人、言葉が透明なものではなくて、なんらかの壁として感じられる人にとって、言語学はすごく面白いと思う。

以下、言語学とは何かについて、メモを残しておく。

 

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言語学とはなにか

言語学とは、言語に関する科学的研究だ。

ここで問題になる、「科学」について、少し説明しよう。

 

ここでいう「科学」とは近代科学のことで、主に西欧で19世紀までに完成された方法論、あるいは複数の「科学者」といわれる人間の集団の営みの一つを指している。

岩波講座 言語の科学〈1〉言語の科学入門p129

 

同著では「科学」の成立過程について、力学を例に挙げている。

紀元前、アリストテレスは「物体は力を与え続けないと運動を停止する」という一般化を行った。これは一見すると正しい主張だが、この一般化は摩擦のある面上において成立する。

16、17世紀にガリレオは「力が働かない限り物体は現在の運動を続けようとする」慣性の法則を打ち出し、それを1世紀後、ニュートンが一般的な運動方程式に落とし込んだ。

 

このように力学の成立過程では、何人かの天才の発見が不可欠だ。

しかしながら後の時代の人間は、たとえ天才でなくてもこれらの理論を学び、理解することができる。

ここに「科学」の本質的な特徴がある。

 

科学のもつ、このような特徴を分解してみると次のような性質が出てくる。

客観性…科学の対象・方法は特定の人間に依存する部分が小さい

再現性…科学の結果は特定の時間・空間に依存する部分が小さい

普遍性…科学の結果・方法は特定の地域に依存する部分が小さい

 

(同上)p130

 

こうした特徴を持っているからこそ、科学には蓄積性(accumulativity)がある。私のような天才でない人間でも先人の業績を継承し、山を築き上げることができる。

 

逆に言うとエセ社会学のようなエンタメ学問の「エセ」たる所以は蓄積性の無さにある。

そういったエンタメ学問の「筆者独自の観点」「現代社会を斬る」といった煽り文は、上記のような累積性の無さを自ら主張するようなものだ。

 

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対象について

では言語学の対象となる「言語」とは、何を指すのだろうか。

大学生との飲み会で、自己紹介で「言語学を勉強してる」と言うと、だいたい次のような反応を受ける。

シュリーマンみたいなことをやってる」「日本語のルーツを探っている」「色んな外国語を知ってる」…言っておくけど、それはものすごい偏見だ。

 

自分が興味を持っているのは「言語がどのように理解されているのか」に関する仮説の検証で、受け手の印象に残るレトリックとは何か、という研究だ。

 

でもこれはこれでかなり特異な研究なので、

 

もう少し広い範囲で言語研究の対象について見ていこう。

先ほどの科学の定義において、対象と方法と結果というファクターが大切だった。

以下は言語学が取り扱う対象について見ていきたい。

「洋書の本棚洋書の本棚」のフリー写真素材を拡大

 

言語の定義:言語の一般的特徴

 

日本語にも英語にもアラビア語にも当てはまる言語の特徴

というものを挙げていく。

 

 

 

(1)言語は記号である

「りんご」と聞いて赤い果実を思い浮かべることができるが、その果実と「りんご」という音声は何にも関係がない。誰かがあの果実を「りんご」と呼んだから、あれは「りんご」と呼ばれるようになった。

もともと「りんご」とりんごには何の関係がない。

「りんご」という音声が指す対象と「りんご」という音声に関係がないことを「記号」と言える。(仮)

 

(2)言語は音声に基礎を置いた記号である

先ほどの項で「林檎」という音声と赤い果実に関係がない、ということを指摘したけど、手話のように音声がなくてもジェスチャーでりんごを指示することはできる。

あるいは、目の前にあるりんごを指で示すことで「林檎」を示すことだってできる。

このような音声を用いない、身体的な表現も言語に含まれる。

(3)言語は超越性を持つ

先の項で”目の前にあるりんごを指で示すことで「林檎」を示すことだってできる。”と書いたけれど、私たちは目の前に林檎がなかったとしても、「机の上に昨日は林檎があった」と言うことができる。

このように、言語を用いることで過去や未来について語ることができる。

 

蜂のダンスが有名な例かもしれない。

蜂が密を捜して飛び立って、花を見つけると

巣に帰ってダンスをし、仲間に花の在処を示す。

 

これも「超越性」という観点からすると、言語のように感じられるけれど実際はどうなのだろう?

 

(4)言語は創造性を持つ

「蜂のダンスは言語ではない」と言えるのは、言語の創造性と体系性による。

蜂は蜜というインプットがないとダンスをしない。

これは刺激がないと反応しない、ということで、

人間が用いる言語とは、その性質を異にしている。

 

麒麟」のような実在しない存在を創造すること

「孫が全員医者と結婚したおばあちゃん」のような、存在するかもしれないけれど、遭遇したことはないものについて表現できるのは、言語のひとつの特徴だ。

 

(5)言語は構造を持った記号体系である

「構造」というのは、「結びつきについて一定の規則がある」ということだ。

日本語でいえば「ん」で始まる単語はない、とか。

 

日本語で「太郎は花子に本をやった」も「太郎は本を花子にやった」も言えるけど

英語で「Taro gave Hanako a book.」は言えても「Taro a book to Hanako gave」は言えないのはなぜか、とか。

 

前の例だと単語を形成する規則、後の例だと文を形成する規則

といったような、形成に関する規則のことを構造と呼ぶ。

 

蜂のダンスはやり方が決まっていて「俺はHIP HOP流でいくぜ」みたいな

新しい「踊り方」ができるわけではない。だから創造性がなく、したがって言語でもない。

 

(6)言語記号は恣意的である

「進捗だめです」を「ニャオス」と表すことに、必然性がない。

 

(出典:めしにしましょう(1) (イブニングコミックス)

 

 

こんな風に言語を規定していくと、

辞書を作る作業やシュリーマンみたいな作業が言語学ではない、というのはわかってくると思う。

それでも結局、本には「かっちり系」のものと「ゆるふわ系」のものがあって、

ここに書いたことは前者なので、あまり読みたい人が出てこないと思う。

 

それでも私は研究をやりたいと思う人間の端くれで、知識をアウトプットしないと身につかないからこのようなエントリーを書いてみた。

今後もがんばるぞー